少女の決意


 帰り道は行きと同じ距離にもかかわらず、酷く遠く思えた。ブカッツは一度もこちらを振り向かなかったが、先に行ってしまうことはなく、絶妙な速度で先頭を歩いていた。


「にしても、くっせぇな」


 空いた手で鼻をつまみながら、ブシドウは顔をしかめる。

 そんなこと、言わなくても分かっている。俺はオークの血を頭から被ったんだ。顔こそ拭ったが、強烈な悪臭が鼻の奥に溜まっている。


「ちっ、嗅ぎつけられたか」


 舌打ちをする大男の声が響いてすぐに、マギとフォクセスは俺たちを中心に三方向を守るように外を向いた。

 まさか、囲まれているのか。三人の声色から察した俺は、血でぼやける視界を拭う。


「リオン、立てるか?」


 緊迫した声でブシドウが肩を離そうとするが、震える足に力が入らず倒れそうになる。

 舌打ちをしつつも再び身体を支えてくれた彼は、マギが向いている方へと寄る。

 その先には、牙を剥いた四足歩行の獣が立ちはだかり、灰色の毛並みと長く大きな口を見るに、狼系の魔物であった。


「アッシュウルフか、厄介だな」


 剣を収めた姿勢のまま、フォクセスは呟く。狼の群れは様子を見ながら、遠巻きに囲んでいる。

 こちらを向いて爪を立てている者、その外側でこちらを注視したままじりじりと横にゆっくりと歩いている者。

 額から鼻先にかけて白い毛並みの彼らは、威嚇するように顔を歪ませている。


「門まではまだ遠い、それにこいつらと競走はしたくないな」

「同意よ、ここで何とかしないと」


 二人が会話を交わす中、ブカッツだけは無言で斧を構えている。彼の背中は大きく、後ろにいるだけで安心感が漂う。


「ゴカゴ、俺の近くに居ろよ。ブカッツたちが動きにくいだろうからな」


 先の戦いで自分の立場を理解しているブシドウは、うろたえているゴカゴの手を引いた。


「ごめんなさい、足がすくんじゃって」

「俺もさ」


 おどけて笑ってみせると、彼女は少し笑みを浮かべた。


「来るぞ!」


 フォクセスの声が飛び、つかの間のあと剣を振り上げる。彼の方向から血が飛んできて、それがアッシュウルフのものだと察した。


「ガウッ!」


 マギが居る方からも一斉に走り出す狼たちは、明らかにオークの血を被っている俺に照準を合わせている。

 この状況は俺のせいか。

 責任に駆られた俺は身体を力ませ、震える足のまま強引に立った。


「無理すんな」

「マウドフレイム!」


 ブシドウの声とマギの声が同時に響き、彼女が左から右に右手を振ると同時に、広がるような炎が狼たちを襲う。

 しかし、炎の中から後続の狼が飛び出し、彼女の目の前に迫った。


「危ない!」


 咄嗟に叫ぶが、彼女は冷静に左手から閃光を放ち、空中のアッシュウルフを弾き飛ばした。

 甲高い鳴き声と共に吹っ飛んだ狼はそのまま炎に呑まれ、続こうとしていた後ろの灰色狼たちは怯んだように足踏みをする。


 攻勢が止んだ一瞬の隙に、震えるゴカゴの手を握りながら、ゆっくりとブシドウから離れた。大丈夫、大丈夫なはずだ。

 

「ブシドウ、ゴカゴ。杖を。俺はこれで、自分の身は自分で守るぞ!」


 げきを飛ばすように二人に告げ、再び背中の模造刀を手に取る。

 それはずっしりと重く落としそうになって、歯を食いしばってこらえる。


「キャン!」


 ブカッツが居る方角から狼の声が聞こえ、彼も撃退に成功しているのだと頬を緩ませる。


「ブカッツ!」


 しかし、マギの悲痛な叫びに、思わず左を見た俺の目に飛び込んだ光景。それは、巨大な左肩に鋭い牙を食い込ませて鼻筋に獰猛どうもうな皺を寄せているアッシュウルフの姿だった。


「ちぃっ!」


 左側に居たフォクセスは神業のごとく返した剣で狼目掛けて突きを繰り出し、その対象の額に刀身が深く刺しこまれる。

 しかし、今度は彼の方に狼が駆け寄り、伸ばしていた右腕を戻した反動で柄を右手から左手に渡し、噛み付こうとする口の間に剣の腹が来るように滑らせて、迫る衝撃に剣の先を右手で支えることによって間一髪防いだ。


 息もつかせないまますぐ横で爆発音が聞こえて、フォクセスと組み合っていた狼はその身体に火球を受けて吹っ飛ぶ。


 横には杖を突き出したゴカゴが、震える唇を食いしばっていた。


「かたじけない!」


 礼もそこそこに、体勢を立て直した彼は目にも留まらぬ速さで剣を収め、続いて迫っていた二頭のアッシュウルフが間合いに入った瞬間、風を切る音が二回聞こえてきた。


 飛びかかろうとしていた狼たちは上顎から上を切り離され、残った身体のうち右の方はブカッツが左腕の裏拳で弾き飛ばし、左の方は逸れていたため、俺のすぐ左にどちゃりと転がった。


「アインスフレイム!」


 オークを葬り去った彼女の魔法の詠唱が背後から聞こえ、背中側に凄まじい熱量が現れる。

 かろうじて振り向いて目に捉えたマギの魔法は、双頭の炎が回転しながら狼を食らっていくもので、最終的に残っていたアッシュウルフはその炎から逃げるようにして一目散に離れていく。


「ブカッツ!」


 魔物が逃げていくのを見送ったマギが、負傷したブカッツに駆け寄る。彼の顔色は少し悪そうで、我慢強く痛みをこらえているように見えた。

 

「あたしじゃ完全に治せない! 街の中へ! 早く!」


 傷口を見て血相を変えた彼女はそう叫んで、フォクセスと俺は目を合わせた。

 彼の顔には俺が走れるかどうかを確かめる意図があり、強く頷くと軽く笑みを浮かべて口を開く。


「走るぞ! 出血をしたブカッツはマギに任せる。残りの三人は某についてくるんだ!」


 近くの北門にも門番は居る。彼らに報告すれば、きっと助けに来てくれるはず。

 震える足に鞭打って、模造刀を収めて駆け出した。後ろにゴカゴとブシドウが続き、縦に四人並んで門を目指す。


 今居る場所は少し小高い丘になっていて、これを下りればすぐに門が見えてくる。

 決して遠くはない距離だが、倦怠感が足をもつれさせる。


「リオン!」


 足が上手く動かずに前から転んだ俺は、すぐに立とうと手を着いた。

 そこに後続するゴカゴが迫り、俺の手を取る。


「フォクセスさん、頼んだ!」


 いつの間にか敬称をつけているブシドウはそう叫んで、倒れる俺の周りを警戒しだす。

 

「やばいぞ、あのクソ狼が一匹来てる!」


 なんとか立ち上がった目の先に、先程散っていったはずのアッシュウルフが見えた。

 奴は先を往くフォクセスから離れるようにこちらへ向かってきていて、彼の助けを呼べそうになかった。


「来い、狼野郎!」


 両手で髪をかきあげたあと、杖を構えてかつを入れたしたブシドウは、爆発音と共にその杖から火球を放つ。

 しかし、炎の尾を引くそれを俊敏な動きで避けて、速度を落とさずに数十歩先に迫るアッシュウルフ。

 

 ゴカゴは、間に合わない、俺がやるしかない!

 咄嗟にカバンから杖を取り出し、火球を放とうとするが魔力が乱れて上手く練れない。

 目の前に迫る狼はブシドウ目掛けて飛びついた。


「こなくそがぁ!」


 ヤケになった彼は握りこぶしを作った右手で、狼の飛びつきに合わせた。

 無茶だ! そう思い何もかも遅いタイミングで模造刀を手に取ろうとするが、彼の放った拳には可視化できるほどの赤い揺らめきが宿っており、狼の下顎を撃ち抜いた。


「えっ」


 殴られて吹き飛ばされるアッシュウルフを見て、予想外の声を上げるブシドウ。

 無様に体から地面に落ちた狼に俺は杖を向け、練り直した魔力を解き放つ。


「ギャン!」


 杖から放たれた火球は奴に命中し、小さく声を上げた狼はそのまま動かなくなった。


「お、俺、素手でやっちまったぜ」

「いいから行くわよ!」


 にやける彼の顔を見て、いつもの調子を取り戻したゴカゴが走り出す。

 その時、彼の首元に見覚えの無い紋様があるように見えたが、それはすぐに見えなくなる。

 気にはなったが、火球を放ったあといよいよ立ちくらみがしだしてそれどころではない。

 あまりにも連続する体調不良に、倦怠感から始まったこの症状は、魔力が底をついたがために起きた事だとようやく理解した。


「大丈夫か!」


 引き返してくれたフォクセスの後ろから、門番が走ってくるのが見える。どうやら伝言に成功したみたいだ。


「俺たちは大丈夫です! 早くブカッツさんを!」


 後ろの方にいるはずのブカッツたちを指差し、頷いたフォクセスはすごい速さで通り過ぎていく。

 遅れて駆けつける門番の一人は、俺の顔を見て目を丸くする。


「血まみれじゃないか!」


 事情を説明すると長くなりそうなので、俺はどこも怪我してないことを告げた。

 鷲鼻で肌が黒いその門番は安堵したように息を吐き、手に持った槍を肩に預けた。


「無事なら良かった、さあ、門の内側まで護衛するよ」


 護衛という言葉に、肩をびくつかせるゴカゴ。

 門番は首を傾げていたが、俺は彼女の胸中を察してそっと寄り添った。


「……ありがとう」


 彼女は未だに、襲撃され攫われた際の出来事が忘れられないのだろう。凄惨な状況を目の当たりにしたに違いない。

 ブシドウも寄り添い、三人で固まって門番と共に歩く。酷い悪臭が思い出したように主張しだし、顔をしかめながら門をくぐった。


 無事に街に戻ったあと、遅れて四人の人影が見えてきた。

 ブカッツの傷は浅かったが、アッシュウルフ特有の毒があるということで、俺たちと一緒に居た門番はすぐにクリストさんを呼びに行った。

 三人と共に戻ってきた門番は名をオウルと言い、フォクセスと知り合いのようだった。

 「彼が北門の門番じゃなかったら、別の門から出発してるよ」と疲れた笑みを浮かべて目を細めた彼は、だいぶオウルの事を信頼しているみたいだ。


 程なくしてクリストさんが走ってきたが、俺の姿を見て門番と同じ反応を見せた。

 怪我はないと聞いて安心した彼はすぐにブカッツの元へ行き、ひざまずいて肩を押さえるその大きな手の上から癒しの魔法を浴びせる。

 俺はそれを見届けたあと、酷い眠気に座り込んで、ゴカゴに支えられたまま眠りこけた。


 次に目を覚ますと見慣れた天井灯があり、衣服は新しく替えられ、濡れた布で身体でも拭いたのか、悪臭も血も無くなっていた。

 身体が重く、起き上がるのにも苦労する。

 ベッドから簡単に起き上がれた試しがあまりないな、と一人苦笑して俯いた。


 想像していたよりも魔物は強大だった。偶然とも言うべき奇跡であの危機を切り抜けることができたけど、ブカッツさんが負傷してしまった。

 彼はすごく粗雑で無愛想だけど、一緒に行動してみると印象がガラリと変わった。

 

 もし自分が出しゃばらずに、彼らにオークの討伐を完全に任せておけば、ブカッツさんも怪我せずに済んだかもしれない。

 またしても心をむしばむ無力感が、自分の中で急速に広がっていく。


 焦っても何も得られない。分かっている。

 昨日今日で強くなるわけがない。それも分かっている。

 でも、いつも俺は無力だ。誰かに庇われ、その誰かを傷つける。


「リオン、起きてる?」


 ノックと共にゴカゴの声がして、はっと顔を上げる。

 小窓から見るにもう夜で、今宵こよいは神の目の光が弱いために天気は良くないと想像した。


「起きてるよ」

「良かった、入ってもいい?」


 頻繁に訪問するゴカゴだが、本来は彼女の部屋かもしれないと思いつつ肯定の返事をした。

 ゆっくりと扉を開け、顔を覗かせる彼女。

 

「お邪魔するね」


 扉を閉めた彼女は、遠慮なくベッドに座る俺の足元に腰掛けた。


「ねえ聞いてよ。ブシドウったら、帰ってきてから自慢がすごくてすごくて、さっきまでずっと聞いてたのよ」


 弾けるような笑顔で、せきを切ったように喋りだす彼女。俺はひたすら相槌を打ちながら、目まぐるしく変わる少女の表情を眺めてた。


「ふう、満足!」


 一通り喋り終えたのか、伸びをしたゴカゴの顔は晴れやかだった。

 それでも今回の冒険は流石にこたえたのだろう、伸びをしたあと放心状態で壁を見ている顔がとても疲れているように見えた。


「ごめんね、いきなり話し出しちゃって」

「ああ、いいよ。大丈夫」


 気を遣うように笑顔を見せるが、不自然な沈黙が彼女との間に流れる。


「忘れかけてたけど、やっぱり思い出すものね」


 少し声を震わす彼女は、どこを見つめるわけではなくただ正面を見上げる。


「……私を護ってくれてた人の中にはね、小さい頃から知ってる人が居たの」


 思い出を手繰り寄せるように、ゆっくりと彼女は話し出す。


「その人はお兄ちゃんみたいで、いつも一緒に遊んでくれたわ。私より多分十は上で、かっこよかったし、好きだったなあ」


 俺は彼女の顔を見ることができなくなり、視線を足元に落とす。


「あの日ね、その人の出身である街に遊びに行く事になってね。綺麗な馬車と、彼の友人とで、街を出発したんだ。お父さんは心配してたけど、ほら。私の家って教会だから、離れられなくてね」


 淡々と話す彼女の声が、息遣いが、やけに耳元に響いた。


「街を離れたことが無かった私は、わくわくしながら馬車に乗り込んだわ。その時に、まるで騎士様のように手を引いてくれて、その人と一緒に馬車に乗り込んで、しばらく揺られていたの」


 ゴカゴは深く息を吸ったあと、吐きながら少し俯いていた。


「それは突然だったわ。外で沢山の人の声がして、異変に気づいたその人は剣を抜いて外に出ていったけど、しばらくしたら静かになって。……あいつが馬車に入ってきた」


 まるで俺が抱いている憎しみが乗り移ったような声色に、俺は彼女の顔色を窺った。


「堂々と顔を見せていたあいつは、片目に切り傷があって塞がっててね。ボサボサの髪の毛に汚い髭が生えてたのを覚えてる。奴に髪の毛を掴まれて馬車から引きずり出されたあと、私は外の光景を見てしまったの」


 長い沈黙が、その時の映像を全て物語っていた。


「リオンは、復讐したい奴がいるんだよね」


 諦めたような笑みを浮かべた彼女は、涙を浮かべながらこちらを見つめる。

 俺は先程まで抱いていた無力感を上書きするように、たまらないほどの激情が身体の底から湧いて出てきていた。


「ああ」

「私も」


 指で涙を拭った彼女は、決意と覚悟を宿した瞳でこちらを見据える。


「あの人の仇を討ちたい」


 言葉にならないほどの感情が、少女の声には秘められていた。

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