獣人種の脅威

 距離にして、大人の五十歩分。たとえるなら、その大人が全力疾走したら五秒もかからない距離。

 そんな距離にもかかわらず、奴の姿が見えなかったのは、果樹のせいだ。

 実を付けた木々は所狭しと寄り添い合うように枝を伸ばしており、栗色をした木の色が魔物の体毛とそう変わらないため、完全に同化していたのだ。


「オークか、一頭だけなら良いんだがな」


 不安そうに呟くフォクセス。

 左手にある果樹林、そこには本来オークは居ないという。西の異変により生態系が崩れた結果、このような場所に現れたとでも言うのだろうか。


「大丈夫、あたしたちに任せて」


 震えるゴカゴの手を握り、正面を見据えたままマギは優しい声色で穏やかに言う。

 しかし、その背中には声とは裏腹に気迫が溢れており、そんな彼女にゆっくりと左から現れたフォクセスが並ぶ。


「俺がやろう。ブカッツ、頼む」


 既にその手に愛剣を持ち、一歩前に出た彼はゆっくりと横に半円を描いて剣を振り上げる。その刀身は細く若干反り返っており、打ちどころが悪ければ簡単に折れてしまいそうな印象を受ける。

 しかし、次の瞬間、空気を裂くような音と共に既に剣を振り下ろしていた彼の前方から、切り裂いた空気の衝撃波が現れて、それが高速でオーク目掛けて放たれた。


 時間にして数秒もなくそれはオークの左腕を捉え、間を置いて前腕部がぼとりと地面に力なく落ちる。


「グォオオオオ!!」


 獣の叫び声が地を鳴らす。その声に呼応するかのように、ブカッツは構えた。

 後ろの木々にも損傷を与えたために、音を立てて倒れる果樹だったが、身体に直撃したにもかかわらず血走った目つきでこちらに向かって奴が走り出す。


 左肩から血を撒き散らしながら、巨体に似合わず俊敏しゅんびんな動きであっという間に目の前まで迫ったオークは、大男であるブカッツよりもさらに一回り大きく、木より太いその腕を乱暴に斧を構える彼へと上から振り下ろす。

 しかし斧の柄を横にして奴の手首と交差するように器用に当てたあと、怯んだ獣に対して右手に渾身の力を込めた大男は、がら空きの横腹を目掛けて斧を横に振り回す。


 ドッと鈍い音と共に、岩より重そうな巨体が一瞬浮いて左側へと倒れ込む。その際に赤い血しぶきが舞い、斧には糸を引くように奴の血がしたたっていた。


「うっ」


 強烈な悪臭にゴカゴは口元を押さえて嘔吐しそうになるが、一瞬振り向いたマギが彼女の胸に手を当て、その部位が仄かに緑に光ったあとすぐに手を戻し前に向き直した。

 恐らく癒しの魔法だろう。何が起こったか分からないほどの手際の良さに、今やけろりとした表情の少女は礼を言おうか迷っていた。


 そして倒れ込んだオークへのトドメ、マギが両手を前に揃え、高らかに叫ぶ。


「アインスフレイム!」


 ごうっと両の手から踊るように炎が渦巻いて放出され、回転するそれはあっという間にオークを包み込む。

 耳を塞ぎたくなるほどの凶暴な断末魔を上げるも、その声は次第に弱くなり、黒ずんだ腕が力なく垂れて地面に落ちる。


 奴の腕が地面に落ちるまで、一歩も俺は動けなかった。

 こんな巨大な魔物を倒してしまうなんて。しかも、三人とも息を切らさずに。


「すげぇ……」


 ようやく絞り出したような声を上げるブシドウは、手を震わせて今や炭になりつつある魔物を見つめていた。

 焦げ臭い、が悪い匂いではない。人によっては食欲をそそられる匂いが風に乗って漂う。

 周りは草木なのに燃やしたままで大丈夫かと心配になるが、不思議なことにその炎はオークだけを焼くかのように延焼せず燃え上がる。


「まずいな」


 華麗に討伐したはずなのに、眉間に皺を寄せたフォクセスが重い声色で呟く。

 その言葉に頷いたマギは、こちらに振り向く。その顔には笑みを浮かべてこそ居たが、焦りからかこめかみを伝うひとしずくの汗が見える。


「オークは群れで行動するわ。仲間が来る前に離れるわよ」

「子守りしてなきゃやれるがな」


 嫌味たらしくブカッツが言うが、ぐうの音も出ない。俺はおもむろに背中の模造刀の柄を持ち、ゆっくりと引き抜く。

 いつ戦闘が始まるか分からない。使わずに終わるより、ずっと持っていた方がいい。

 久しぶりにまともに握ったそれはやはりしっくり来て、俺の手に馴染んでいくようだった。


「ちっ、来たか」


 細い目を見開いた彼は舌打ちをするが、向いている先は同じく果樹林地帯。しかし、その木々の間から一体、また一体と姿を現していくオークたち。

 そいつらはゆっくりと広がるように横へ移動していき、こちらに対して前方を扇形おうぎがたに囲む姿勢を見せている。


 奴らの瞬発力は先程見ている。今から背を向けて逃げたところで、背後から襲われるに決まっている。幸いなのは奴らにはこれといった武器を持ち合わせていなく、全員が素手の状態だということ。


 背中から緊迫感を伝える三人の後ろで、俺は考えを巡らせていた。

 どうすれば打開できるだろうか、と。

 カバンには貰った魔道具の杖一本と、手には模造刀。ゴカゴとブシドウも同じ杖を持っている。

 こんな事になるなら、魔道具の試し打ちでもしておくんだった。後悔を滲ませながらも、次々と果樹林から出てくるオークたちをただただ見送る。


「何匹いるんだこりゃ」


 思ったより冷静な声でブカッツは呟き、身体に染み付いた隙のない動きで十匹以上は居る彼らを見渡す。


「こんなに統制が取れているということは、群れの主が居るはず」


 マギはいつでも魔法を出せるように両手を前に突き出したまま、彼らの動きを分析する。


「どちらにせよ、守りながらだと分が悪いな」


 ちらりとこちらを見たフォクセスの視線に、俺は罪悪感を抱いた。


「なあ、ブカッツ。あいつらって火に弱いのか?」

「……そうよ、オークは火に弱い種が多いの」


 ブシドウの問いに対して沈黙する大男に代わって、隣に居るマギが口だけ動かして伝える。


「じゃあ、俺たちの魔道具で倒せたりするのか?」

「そうね、頭に当たったら呼吸出来なくなるだろうから、動きは止められるでしょうね。でも、トドメは刺さないといけないわ」


 やはり魔道具の火力では駄目なのか。

 舌打ちをする生意気な少年は、状況の悪さに顔を歪める。

 彼と俺に挟まれているゴカゴも、その唇が恐怖のあまりに血の気が引いて青くなり、微かに震えている。


 出揃ったオークたちは全部で十三匹。その顔は俺たちを餌としか思っておらず、本能に従ってヨダレを落とし続けている。

 この中に群れの主が居るんだとしたら、少しは特徴があるはず。

 全員の容姿を細かく見比べていくと、一匹だけ口の端が一方のみ裂けており、そこから長い舌が覗いている個体が居た。


 俺が気づいたくらいだ。恐らくマギさんたちも分かっているはず。

 だが、俺たちを守りながらだと力を出せないのが明白なら、せめて三人だけでも戦えることを証明しなくちゃならない。


 無謀だと分かっていたが、俺は隣に居る二人に提案することにした。


「あそこに口が裂けている奴がいるだろ、多分あれがリーダーだ」

「そうなの?」

「確かに妙な威圧感があるな。どれもやべぇけど、あいつは特にやべぇ」


 そいつは群れの中で中央に位置しており、よく見ると左右に広がっているオークたちにたびたび目配せを行っている。


「あいつに対して、魔道具の炎をぶつけよう」

「いいアイデアだが、やめておいた方がいい」


 左横で話を聞いていたフォクセスが、静かに却下する。


「確かに奴が群れの主だが、動きからして奴はかなり臆病だ。こちらの弱みもしっかり分かっているし、わざと姿を現しているようにも見える。それに、その魔道具は一回使ったらすぐには撃てない」


 つまり、俺の作戦だと逆に危機に陥るらしい。

 歯噛みするのを感じ取ったのか、マギは背中を向けたまま呟く。


「あたしの操れる属性は、火と雷よ。魔法は組み合わせたら新しい属性ができるのは知ってるわよね?」

「おい、何を考えている」


 ブカッツが口を挟もうとするが、彼女は構わずに続ける。


「火と雷なら、光に似た属性になるの。閃光って言うんだけど、あたしの魔力量だと相手の目を眩ませるのが限界よ。何が言いたいかと言うと」

「隙を作るから撃てというわけですね」


 俺の返しに、鼻の高さが目立つ横顔の彼女は口角を上げてみせる。


「一匹ずつ相手してもいいが、ガキどもを守れる保証はねぇ」


 現実的な意見を述べるブカッツのそれは、暗に作戦への賛成を表していた。


「ふう、仕方ないな。もしその間に向かってくる奴が居たら、それがしが斬り捨てよう」


 覚悟を決めたフォクセスは結んだ髪の毛先を躍らせ、背中の鞘を腰に回し、何故か剣を収める。

 

、ね。信じてるわよフォクセス」

「それはこっちのセリフだ」

「おいガキども、狙いを定めたら目をつむっておけ。そして俺が合図したら撃て。いいな?」


 威圧的だが、的確な指示が飛び、いよいよ心臓の高鳴りが最高潮に達そうとしている。

 魔道具を初めて使う上に、目をつむらないといけない。

 しかし、同じ不安を抱いているはずの二人も、覚悟を決めた表情でブカッツの横から杖を群れの主へと向けている。

 背中を押された俺はそれに倣って模造刀を背中に収めたあと、カバンから取り出した杖を持ち、静かに魔力を練っていく。

 

 緊張に比例して荒れ狂うような魔力の渦に、その先をなかなか捉えることができず焦りがつのる。

 

「大丈夫、ケンジャさんに教えられたんでしょ? 必ずできるわ」


 安心させるように励ますマギがそれを知っていたことに驚くが、多分ゲエテが伝えたんだろう。

 出発前のおどける男の姿を思い出し、おかげで肩の力が抜けた。

 

「大丈夫です」

「ゴカゴちゃんとブシドウくんは?」


 手に魔力を溜める仕草をして、ブカッツの前に立つ彼女が問いかける。


「行けます」と決意を表すゴカゴ。

「当たり前だ!」威勢のいい声を上げるブシドウ。

「よし、なら行くよ!」


 目を閉じる前に最後に見た光景では、さっきより囲いの円を縮めたオークが今にも飛びかかってきそうな距離で待機している姿だった。

 かたわらに立つフォクセスさんを信じて、群れの主に杖を向けた俺は、静かな心のまま目を閉じた。

 風の音、獣の鳴き声、不快な豚鼻の音、それがだんだん聞こえなくなっていき、俺の意識は魔力の流れと共にあった。


「今だ!」


 ブカッツの大声と共に、魔力の流れを手に集中し、持っている杖が爆発したかのような衝撃が走る。

 それと同時に、まぶた越しにとんでもない光が出現し、オークたちのおののく声が聞こえてくる。


「グォアオォォ!」


 時間にして数秒で地響きのような悲鳴が聞こえ、光が消えたと同時に目を開けると、上体が火に包まれた群れの主が苦しみにあえいでいた。

 周りのオークたちはリーダーの悲鳴と突然の光に完全に浮き足立ち、混乱しきっている。


「行くぞ!」


 斧を掲げた大男は叫び、走り出す。フォクセスは剣を収めたまま凄い勢いで駆け出し、一番端のオークに剣の間合いまで近づいた時には、抜刀して右に振り抜いていた。

 遅れて首元から噴き上がる血しぶきと共に、声も出さずに倒れていくオーク。

 続けて隣へと切りつけている所まで見届けて、俺は模造刀を手に取った。


 ブカッツは右端でうろたえる個体の首を斧で切り飛ばし、マギは手から稲妻の嫌な音をさせて、突き出した右手から閃光を走らせて右側の中央に居るオークの巨体を吹き飛ばす。


「リオン!」


 ゴカゴの声を背中に受けながら俺は剣を片手に、燃え盛る中央の獣へ一目散に走った。

 苦しんではいるが、まだ生きている。奴から仕留めねば混乱から立ち直ってしまう。

 視界が真っ赤に染まって狭まる感覚が、俺の判断を鈍らせた。


「リオンくん! 危ない!」


 俺の行動に気づいたフォクセスが、咄嗟に飛び出して俺を横から制止した。

 そして俺が走っていたであろう数秒先を、獣の巨大な腕が通り過ぎる。

 燃え盛っている奴の顔、鋭い眼光のこちらを見据える瞳を見て、奴は混乱した振りで誘っていたことを知る。


「ガアアア!」


 そのまま奴は走り出し、無防備になった俺とフォクセスに向かって右腕を乱暴に繰り出す。

 その腕が目の前に迫った瞬間、耳を塞ぎたくなるような衝撃音が、奴の右腕を大きく弾いた。後ろを見ると、左手を突き出したマギの姿。


「フォクセス!」


 彼女の叫び声に反応した彼は即座に剣を収め、右半身を前に出し、屈み気味の体勢のまま繰り出したすり足で仰け反る獣へと近寄る。

 そして、一刀なるままに下から上に振り上げた。


「ゴガッ!」


 右腹から左肩に掛けて赤い線が入り、やがてパックリと割れた中からおびただしい血が流れ出す。

 しかし、凄まじい生命力を持つ獣は、もう一度右腕を振りかぶる。

 俺は考えるより先に身体を動かし、自然と練られていく魔力を手へと集中させた。


 そして、走りながら突き出した模造刀に魔力が乗り、まるで父の魔法のように光を放つそれは、獣の心臓部へと深く突き刺さる。

 声にならぬ悲鳴を上げ、動きを止める群れの主。永遠に思えるのあと、だらんと力なく右腕を下ろし、重力に従って奴は膝を着いた。

 その衝撃の折に身体から臓物ぞうもつが溢れて悪臭を織り成すが、俺は奴の血を浴びながらも不思議と怯まなかった。


 主がやられたと本能的に気づいたんだろう。周りを見ると視界を奪われて悲鳴を上げていたオークたちは途端に静かになり、死を悟ったかのように大人しくなった。

 そんな残った彼らも熟練の三人の手によってその命を絶たれた。

 

 光り輝いていた模造刀はいつもの見た目になり、酷い倦怠感けんたいかんが全身を襲う。

 膝を着いたまま事切れている獣から、フォクセスの手伝いを受けて剣を引き抜いてもらい、その勢いのまま後ろから肩を支えられた。


「リオン、大丈夫?」

「お前、凄かったな。あれどうやったんだ?」


 視界がぐるぐる回る俺を、喜ぶ声のゴカゴとブシドウが囲む。


「リオンくん、あの魔法は……」

「帰るぞ」


 何かを言いかけたマギを遮るように、斧を肩に乗せたブカッツが低い声で告げる。


「歩けるかい?」


 なんだかこの人には支えてもらってばっかだな。

 フォクセスさんの善意を受けながら、なんとか自分の足で立ち上がる。

 全身オークの血まみれで、これを見たらクリストさん卒倒そっとうしそうだなと浮ついた意識で考えつつ、肩を貸してきたブシドウと共に歩き出す。


「次は俺の番だぜ」


 俺にだけ聞こえる声でそう言った彼は、称えるような笑みで横からこちらを見つめていた。

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