9.愛のある恨み言


 ゴールデンウィーク休暇一日目はなんだかとんでもないことの連続だったけど、結果的に春輝さんのことをいくらか知れて良かった。


 と言っても根掘り葉掘り訊いた訳ではない。彼が話しても問題ないと思っているであろう範囲に触れ、まだ抵抗のありそうな範囲には触れなかった。私の感覚が合っているかはわからないけど。


 彼は先月の二十九日、つまり私が倒れた日の前日からこの町の宿泊施設に滞在しているらしい。三日には一旦帰宅するからそれまでならどの時間でも会えるとのことだった。


 しかし二時間しか眠ってなかった人だからなぁとためらう。おそらくだけど、バカンスで来ているとかじゃなくて宿泊先で仕事してるんじゃないか、などと想像した。日をまたいでなお私がまだ診療所にいると思い込んでたのも時間の感覚が狂っていたからなのでは?


 ともかく彼の携帯番号と宿泊先なら教えてもらった。土地勘があるのも私の方。

 ゴールデンウィーク休暇二日目の今日は、私の方から会いに行こうと決めた。


 今朝ドラッグストアで買ってきたスポーツドリンクのペットボトルを二本リュックの中に詰め込む。それと保冷剤にタオル、ゼリー飲料、桃の缶詰。

 ……待て、これ完全に看病セットだと途中で気付きはしたけれど。

 だってあの人危なっかしいんだもん! ホテルの部屋で倒れてないか今も気が気じゃないんだよ。


 さっさと携帯に電話すればいいのかも知れないけど、それはなんだか恋人みたいで抵抗がある。そんな馴れ馴れしいこと……


 はた、と私は手を止めた。何処を見るでもないけどなんとなく顔を上げる。


「あ、そっか。付き合ってるんだっけ」


 はー……と長く息を吐く。

 事実と実感のタイムラグ、いい加減どうにかしたいものだ。



「こんにちは、春輝さん。それじゃあ今から向かいますからゆっくり待ってて下さい」


 電話でそう伝えて家を出た。とりあえず倒れてはいないみたいで安心した。しかし油断は禁物だ。ちゃんとこの目で顔色を確かめるまではな……!

 もはや私は彼のなんなのかよくわからなくなってくる。


 春輝さんは道に迷ったと言っていたけど、私からしてみればそんなに難しくはない。徒歩とバスで片道四十五分。いつか店長から聞いたけど、都会じゃこのくらいで“遠い”と言うらしい。でもあの人たち、テーマパーク内なら何時間でも歩けるのだろう? そっちの方が凄いと思うんだがな。


 そんなことを考えている間にホテル近くのバス停に着いた。

 この辺は年季の入った建物ばかりで色褪せた看板やクタクタの暖簾のれん、そこにつくる意味ある? と問いたくなるような短い階段などが目立つ。しかし観光客からするとそこがなんともエモーショナルなんだとか。春輝さんもこういう雰囲気が好きなのかな。


 ここも遠くから海の音色が聞こえる。今日は昨日よりか涼しく空もくすんでいる。ひんやり冷えた潮の匂い。そこに漂うかすかな物悲しさなら私もなんとなく理解できる。

 そのとき、真っ直ぐ続く歩道の向こうから大きく手を振って走ってくる黒ずくめ人の姿が見えた。やがて声も届いてくる。


「琉夏〜! やっと終わったぁ! 終わったよ!」


 主語は明確にしよう、春輝さん。

 それにしてもやけにハイテンション。この人らしくもない。


 私は目の前に滑り込んできた彼を鋭く見つめると、その頬を両側からがっしり掴んだ。美麗な顔がくしゃりと崩れる。

 こめかみをピクピクさせながらもなんとか笑顔をつくり彼に話しかける。皮肉はしっかり混じってしまったが。


「こんにちは春輝さん。元気が良さそうですね」


「うん! やっと終わったから」


「何が終わったのかはわかりませんが。それで。ちゃんと寝れたんですか」


「大丈夫、三時間しっかりと……」


「すぐ寝なさい! 今寝なさい!」


 看病セットが早速役に立ちそうだ。全く嬉しくはないけどね!

 さすがに今回ばかりは、彼がどんな事情を抱えているのかみっちり訊いてやろうと思った。



 和風に寄せて造られたこのホテルの部屋には広縁ひろえんが設けられていると聞く。彼の部屋からもきっと海が見えるのだろう。

 そんなふうに思いを馳せながらも、私は一階のラウンジで買ってきたホットコーヒーを飲んでいた。


 寝不足だと却ってハイテンションになる人もいるらしいじゃないか。本人は大丈夫だと思っていても実際はそうじゃないんだよ。睡眠負債を甘く見ちゃいけない。

 だから何時間でも気にせずに眠ってほしいと伝えた。看病セットも全部渡した。あれから大体一時間。彼のことだから多分……。


 気配を感じ取って振り返ると、少しいじけた表情の春輝さんが立っていた。

 これで合計四時間か。納得はいってないけど、私は彼の背中をポンポンと叩き「えらいぞ」と言ってやる。うつむき加減の頬がほんのり血色良くなった。


 ホテルのレストランで遅めの昼食をとった後、近くの海辺まで出かけることにした。


 近所だとやはり周りの目が気になる。ここも同じ町に変わりはないけど、家から距離がある分いくらか気が楽だ。

 指先がちょんと触れ合うと、どちらからともなく手を繋いだ。こんなことだって出来てしまう。


 明らかに訳ありの私。今まで町のみんなに見守ってもらってきたのに。住む家も仕事も用意してもらったのに。せめて自分が出来ることをと考え勤勉さを取り柄にしたりボランティアにも参加してきたのに。

 観光客の中に紛れ、こっそりと、こんな場所で。

 背徳感とは不思議なものだ。“悪”の一言では片付けられない。時に当事者を酔わせ、癖にさせる。そんな魔力のようなものを感じる。


 だけど彼の手に触れていると実感するのだ。記憶はなくても。

 きっと私たちは昔からこうやって支え合っていたのだろうと。



――春輝。


 日が赤みを帯びてきた頃。私は初めて彼を呼び捨てにした。

 いや、きっと初めてじゃないんだ。

 彼の切なげな眼差し、震える唇、それを見ていれば容易にわかった。


「ねぇ、春輝はどうして無理ばかりするの」


「無理してるつもりはないんだ。集中すると寝食を忘れてしまって」


「それって仕事のこと?」


「やっぱり気になるよね、僕の仕事」


「興味はある。あともし仕事が原因でそんな不健康な生活になってるなら、改善策を私も一緒に考えたいの。お節介すぎるかな」


「ううん、ありがとう。琉夏のそういうところ、僕は昔から好きだった」


 なんと、私は記憶を失くす前からお節介だったのか。好きと言われたときめきと同じくらい驚きも大きかった。

 過去の私の欠片かけらが今の私の中に生きているとも考えられる。それは胸が熱くなる発見だった。


 やっぱりこの人を知ると過去の自分も身近に感じられるんだ。


「わかった。琉夏にはちゃんと伝えておくよ。ちょっと待っててね」


 春輝はそう言うとスラックスのポケットからスマートフォンらしきもの取り出し、画面を上下に撫でるようにして触り始めた。長谷川家のタブレットの操作方法と同じだ。テレビにも出てくるからなんとなく知ってはいたけど間近で見ると興味深い。


 私がぐいと背伸びをして覗き込もうとすると、春輝の身体がぴくりと反応する。


「琉夏、近いよ」


「ああ、ごめん」


「ううん、嫌な訳じゃなくて僕もまだ恋人という関係に慣れてないというか……」


 お姫様抱っこした人がよく言うよ。みんな自分のことは案外わからないもんなのかねぇ。

 私が内心でつっこんだりなんかしているうちに、春輝は探していたものを見つけたようだ。


「あ、これ。前に僕が作ったんだけどね。こういう仕事をしているんだよ」


「どれどれ」


「ちょっと音出すよ」


「音?」


 春輝は素早く辺りを見回した後に再び画面に触れた。

 人に聞かれたくないものなのかなと疑問に思っていた途中でそれは流れ出した。



 私はやがて息を飲むことになる。



 繊細かつ透明感のある旋律は、波の音と重なることで更なる哀愁を帯びた。


 何処か懐かしい。何処かで聴いた……というより触れたことがある、包まれたことがあるという表現が相応しい。この感覚が大部分で、あとは純真さと微量の気怠さで構成されているように思える。


 次第に曲調が盛り上がっていく。歌詞はないのに、全身全霊で何かを追い求める焦燥感へと転じていくように感じた。

 伸ばしたその手は届いたのか。

 再び哀愁で幕を閉じようとしている気配に気付いて今度は私が手を伸ばしそうになっていた。



 鳥肌が立つとはこのことだ。全身がチクチクするくらい。それでいて両手はじっとりと汗ばんでいた。


「凄い……」


 あまりにも圧倒されると語彙力など呆気なく失うのだと知った。


 波の音が続く。ゆっくり、ゆっくりと、私の心の熱を冷ましてくれる。

 そうだ、仕事の話をしていたんだ。やっと思い出した。私は春輝の方を見上げて問う。


「この曲、春輝が作ったの?」


「うん、まぁ」


「この間MINATOの助手がしたいって言ってたけど、そんな場合じゃなくない!? なんで助手なの。こんな凄いものが作れるのに」


「僕はMINATOを尊敬しているよ。あまり目立ちたいとかもないし、サポートする立場の方が向いてる気がするんだ」


「え、でも目立ってるよ。その格好」


「これは単なる僕のアイデンティティだから」


 春輝は拳で口元を押さえながら苦笑していた。困ったように眉を下げながら私を見つめる。夕日の熱が移ったみたいに瞳が煌めき頬が色を帯びた。



「琉夏とミナト。君たちのせい。こんなに僕を魅了するのが悪いんだ」



「春輝……?」


「この人生をかけてもいいと今まで何人に思わせたかわかる? みんな唯一無二の助手になりたがるんだ。いかにして自分だけの方法で君たちの役に立とうかと考える。僕だけじゃないんだよ。それなのに君たちは無自覚だ。だから言ったでしょ、悪い子だって」



 彼は……時々よくわからないことを言う。でも無意味な言葉遊びをしているようには思えなかった。ましてや恨み言が混じったようなこの言い方が軽いものであるはずがない。


 今なんとなく、ミナトが黙ってこの人の元を去った意味がわかった気がした。

 多分、多分だけど、これ以上彼に癒えない傷を作りたくなかったんだ。



「ちょっと寒くなってきたね。春輝は大丈夫?」


「あっ、気が利かなくてごめん! 何処かお店に入ろうか」


「ううん、気にしないで。私寒がりなんだ。春輝が平気ならそれで……」


「ああ、本当に僕はなんて役立たずなんだ……! 羽織りの一枚も持ってきてないなんて……!」


「いや、だから。そんなに気を遣わないで? もっと気楽にいこうよ、ね?」


 頭を抱える彼を宥めつつ、私はさりげなく元の方向へ引き返そうとした。

 寒いのは本当。でもどちらかと言うと四時間しか寝てない春輝の方が心配なんだ。早く休ませてあげたい。


 砂を踏み締める一つの足音がこちらへ近付いてきているなんて気付きもしなかった。



――琉夏さん、ですよね。



 名を呼ばれるその瞬間まで。本当に私は周りが見えてなかったんだ。


 振り返るとその人が立っていた。見た目は七十代くらいの男の人。実際はもっと上なのかも知れない。

 きっと実年齢の割に姿勢が良くて、声も若々しい。シャツにニットベストにスラックスという至ってシンプルな組み合わせなのに、この町では浮いてしまうんじゃないかというくらい都会的な雰囲気。ハリのあるグレーの髪も丁寧に整えられている。


 そして私のことを知っている。


 ずっと会っていなかったから思い出すのに時間がかかったけれど、彼が再び口を開く頃には確信へと変わっていた。



「久しぶりだね。元気にしていたかい?」



桐島きりしまさん……」



 今更込み上げてきた緊張感が全身に走り、動けない。

 私の遠い親戚と言われている老夫婦の男性の方。私に住む家と仕事を与え、インターネットの閲覧などを禁じたあの人に間違いなかったからだ。

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ミナトは凪に訪れる 七瀬渚 @nagisa_nanase

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