8.隣にいましょう、私たち


 別に同じ部屋で過ごす訳じゃないから大丈夫。最初はそう思って、一階のリビングでのんびりお茶を飲んだりテレビを眺めたりしていた。


 だけど正直気になった。あの顔色の悪さ。眠いだけじゃなくて例えば頭が痛かったりお腹が痛かったりしないんだろうかと。もし遠慮して言えずにいるんだとしたら? 蒸しタオルくらい用意できるしトイレも自由にお使い下さいと声をかけてあげたい。


「ああもう。しょうがないなぁ」


 私は痺れを切らして立ち上がる。自分が勝手に動こうとしているクセにおかしな呟きである。


 手ぶらというのもなんだ。私はキッチンの片隅に置いてあるダンボール箱の中から天然水のペットボトルを一本取り出した。体調の悪い人にはキンキンに冷えたものなど出さない方が良いかも、と考えてのことだ。

 それを両手で包み込むようにして持つ。よし、と呟き気合いを入れた。


 ぐっすり眠ってるかも知れない。出来るだけ音を立てないよう気を付けながら寝室へ続く階段を登った。


 ドアは一応ノックする。返事がないので「失礼しま〜す」と小声で言いながらドアを薄く開いた。


 春輝さんは……


 彼は、こちらへ背を向けた状態で横になっていた。窓から差し込む昼の光が彼の長い黒髪を一層艶やかに見せている。

 触ってみたい。そう思うのは何も変なことではないだろう。思うだけなら、許されるだろう。自分に言い訳しながら少しずつ彼の方へ歩み寄った。


「ここに置いておきますね」


 囁く程度の声を添えて、ペットボトルをベッド横のチェストの上に置く。


 ちら、と振り返る。こちら側からなら顔がハッキリ見えるからだ。

 どれくらいの深さで眠っているのか、なんとなくでも知りたかった。


 彼の長い睫毛が小さく動いて最初はドキリとしたけれど、どうやらそれは夢を見ているかららしい。多分、レム睡眠というやつだ。

 悪い夢でなければいいなと思った。髪を撫でたい衝動に指先が疼く。


 そんなとき、気付いてしまった。


 この人、うなじの下にほくろが二つある。


 普段はこの長い髪で隠れているのだろうな。でも今は髪も無防備になって白いシーツの上に散らばるようにして広がっている。


 指先はギリギリまで耐えていたのに、何故か人差し指だけがすっと伸びた。二つのほくろを線で繋ぐようにして触れていた、そのとき。


「…………っ」


 天と地がひっくり返るような錯覚を覚えた。

 実際ひっくり返されたのは私の方だった。気付くまでに少し時間がかかってしまったけれど。


 私の手首を強く握り上から覆いかぶさっている春輝さんが、凄く切ない声で問いかける。



「どうしてこんなことするの。悪い子だね」



 虫が留まったくらいに思ってくれれば良かったのに。そう都合良くはいかないものだ。

 彼の表情の意味もわからないまま、なのに苦しさだけが生々しく伝わって私は唇をぎゅうと強く結んだ。


「琉夏は昔からそうだ。優等生なのに、悪い子」


「ごめん、なさい」


「叱られようとしたの。それとも自暴自棄になったの。そんなに僕に壊してほしいの」


「自分でもよくわからなくて」


「僕にばかりつらいことさせないでよ」


「ごめんなさい」


 詫びながらも私は彼の頬に触れた。髪に触れた。悲しそうな目を真っ直ぐ見つめた。

 不思議と怖くないんだ。むしろ試したくなる。どうやったらこの状況を動かせるのか。


 彼が口にした“悪い子”という言葉。今の私には見事に当てはまる。これが本質だったというのだろうか。


「もう知らないよ」


「うん」


「知らないから」


 彼も言葉とは裏腹に私の髪を撫でた。憎しみとは程遠い優しい手つきだ。


 しまいには額をコツリと合わせて至近距離から見つめ合う。

 そこへ置き時計の秒針の音が延々と流れ続けていた。


 ここまでしておきながらこれ以上は進まない。

 お互いにあえて時を止めているからだ。そう理解できるくらいには彼のことがわかってきた。


「何もしないんですね」


 一応確認してみると彼が少しためらうようにして答える。


「これ以上進めば終わってしまうから」


「どんなことにも終わりは来ますよ、春輝さん」


「そんなの嫌だ」


「私がまたいなくなると思ってるんですか?」


「違うの?」


 彼の弱々しい問いかけでようやく察した。

 私はきっとこの人と深い仲になった直後に失踪したんだろう。そして崖から転落する事故に遭い、記憶を失った。ミナトの話とすり合わせて考えるとそんなところじゃないだろうか。


 しかし彼は誹謗中傷が原因だと思っているのだ。守りきれなかったという悲しみはどれほどのものだったのだろう。

 想像力が多少は追いついてくれていることに安堵する。ミナトほど熱くはなれなくても、人並みでいい、このくらいの感受性は欲しかったんだと今更に知る。


 ともかく目の前の彼をこのままにしてはおけない。ゴツゴツした質感の手を握って訊いてみる。


「春輝さん、MINATOの助手としてやり直したいって言ってましたね。そっちはミナトに任せます。私は芸術とかよくわからないので」


「琉夏……」


「それで、私たちはどうしますか?」


「どうするって……」


 困惑しているのが伺える。いや、恐れているのか。

 判断を委ねるなんてズルいか。そう思ってまずは私から伝えることにした。



「私は昔のあなたのことを覚えてません。でもハッキリ言えるのは、出来るだけ笑っていてほしいし、今に集中しててほしいということです」


 そう、復讐なんてしてほしくない。過去の私がどんなに不幸だったとしてもだ。


 意思が定まると言葉もスラスラと続くものだ。それはどれもこれも今の私の素直な思いだった。


「あなたのようなあったかい人が近くにいてくれたんですもの。過去の私だって不幸一色なんかじゃなかったと思うんですよ。思い出せなくて本当にごめんなさい。でもあなたといると素直になれるのは本当みたい。悪い一面が顔を出してしまうくらいにはね」


「本当……? それじゃあ、また僕の傍にいてくれるの?」


「この町を離れるつもりはまだないんですけど、たまに会ったりする仲ならいいんじゃないかなって。とりあえず今は、ですが」


「琉夏が良ければ僕がこっちに来るよ」


「大変じゃないですか? 仕事とかは大丈夫なんですか?」


「仕事はしてるけど会社勤めとは違うから」


「そうなんですか。まぁ、お互い今は今の生活があります。無理のない範囲にしましょう」


「そうだね」


 触れたままの額は、熱い。でも情熱的とはまた違う優しい熱さに感じられる。


 春輝さんがじんわりと目を細めた。憂いを残したままの表情で私に囁く。


「琉夏がそう言ってくれるなら、僕ももっと頑張らなきゃ。琉夏が欲しいものとか行きたい場所とかあったときにすぐ叶えられるくらいには」


 そんな健気なことを言ってくれるのだけど、私はゆっくり首を横に振ってみせるのだ。

 目を見開いた彼に伝えたのは、決して遠慮なんかじゃない。


「私はこういうのがいいんですよ。隣にいたり向かい合ったり、同じ場所で同じ空気を吸って……」


 目の前に幾つかの情景が浮かぶようだった。


「海、綺麗でしょう、この町。晴れた明るい日には海辺を散歩したり、たまに写真撮ったり。雨なら家で雨音を聴いて安らいだり。一人でも出来るじゃんって思われるかも知れないけど、私にとってはきっとそうじゃない。傍に誰かいてくれたらって心の何処かでは思っていただろうから」


「琉夏が望むなら僕もそうしたい。それがいい」


「ありがとう、春輝さん」


 ちら、と上目で彼の様子をうかがう。不思議そうに首を傾げた彼を見ていたらちょっと可笑しくなった。凄く根本的なことを思い出させてあげた。


「春輝さん、とりあえず起きていいですか」


「あっ……! ご、ごめん、さっきはつい……」


「いえ。その……少しずつ慣れさせてもらえると助かります」


「もちろん。急かすつもりはないから」


 私を起き上がらせた彼は、頬を染め視線を落ち着きなく泳がせている。今更自分のしてしまったことに動揺しているのだろうな。


 そして私も心に決めた。同じく急かすつもりはないと。


 復讐なんて不穏な言葉を目にして心がざわついていたのは本当だ。でも詳しい事情とか気持ちとか、今すぐに訊こうとは思わない。まずは彼の心を解きほぐす方が優先。それは何も計算ばかりではない。触れているだけでわかった、きっとこの人は私の人生において大切な人になっていくだろうから。

 胸の内側があったかい。今は手に取るように伝わってくる。ミナトもそう望んでいるんだって。


「春輝さんのこと、これからいろいろ教えて下さいね」


「え、僕のことでいいの? 昔の自分のことを知りたがると思ってた」


「春輝さんのことを知れば昔の自分も身近に感じられそうです」


「なるほど、そうかも知れないね。じゃあ何処から話そうか」


 私たちはベッドのふちに並んで座り、時間を忘れて話した。きっとお互いに体調不良だったことも忘れて。


 話し疲れたら一緒に昼寝でもしようか。いや、そんな熟年夫婦みたいな関係を望むのはさすがにまだ早いかと気付いてこっそり苦笑していた。


 私に助けられるだろうか、この人を。

 不安はまだちらつくけれど心配ばかりもしていられない。

 窓から零れる木漏れ日みたいな淡い光が、出来るだけ彼の心を温めてくれることを願った。

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