5.それぞれの「ごめんね」


 ザザ……ザザ……と繰り返す。規則的なようで案外不規則。この星が生きていることを実感する。


 波の音は何故こんなに落ち着くんだろうと前から思ってた。よく母親の体内にいたときの記憶とか聞くけれど、私は母親を知らない。鮮明なのはたった四年分の記憶。そりゃ誰かから生まれたことは間違いないし、潜在意識とかはあるんだろうけどさ。


 なんとなくわかったんだ。懐かしい匂いとぬくもりに触れているうちに。

 きっと生きているものに包まれている感覚が心地良く、安心するんだと。


 なんだかんだと人は孤独に弱いから。



 ゆっくりと瞼を開いたけれどたまらない眩しさにもう一度閉じた。

 おそるおそる開いてまた閉じる。そうやって何度か繰り返しているうちに多少は目が慣れた。



「良かった、琉夏。目が覚めたんだね」


 その声を聞き間違いかと思ったけれど、私の視界に映るのはあのヴィジュアル系のお兄ちゃん。頭が思うように回らず「あ、はい」と淡白な返事を返してしまった。

 しかし彼はそんな私の反応さえ嬉しいといったように頬を染めて微笑む。やっぱり変……いや、不思議な人だな。


 ここでやっと状況がいくらか見えた。


 右側は波打ち際。全身に感じるのは歩いてるときの振動だ。でも自分の足でではない。私の両足なら宙ぶらりん状態だ。

 さっきから感じるぬくもりは、優しい目で私を見つめるこの人の胸元から伝わってくるもの。意外と逞しい両腕に私はしっかりと包まれて……


「…………っ!」


「あっ、動かないで。まだ安静にしてなきゃ」


 反射的に飛び起きようとした私を彼が制する。改めて聞くと繊細で甘い声だ。

 ああ、いつか聞いたことある“お姫様抱っこ”とかいう状況だよコレ。そう理解していく私の顔にはぐんぐんと全身の熱が集まる。


「琉夏ちゃん、起きたのかい? 脱水症状かねぇ。今日は案外暑いから」


「それか貧血かねぇ。琉夏ちゃんは華奢だからもっと食べないと」


「それにしても恋人が来ているならそう言ってくれればいいのに」


「ホントホント、ばあちゃんたちびっくりしちゃったよもう」


「言われてみればお似合いだねぇ。二人とも斬新でさぁ」


 斬新? 髪色を見られたか。

 思わずサッと頭を押さえると布の感触。バンダナはまだつけているらしいことがわかって安堵する。

 ともかく聞き慣れた声があっちからもこっちからも届いてくるおかげで、また少しずつ状況を理解することが出来た。


 町内会のみんなの手には少し中身の入ったゴミ袋。おそらくゴミ拾いを中断して何処かに向かおうとしているころなのだろう。凄く申し訳ない気持ちだけど、だからと言ってどうしたらいいのかもわからず「すみません」と細い声が出るだけだった。


「ゴミ拾いならすぐに終わりそうだから気にしなくていいよ、琉夏ちゃん。今日はゆっくり休みなさい」


「そうだよ、私たちのことはいいからさ。それよりこれから診療所に連れてってくれる彼氏さんに感謝しなさいな」


「えっ、あっ、はい」


「じゃあ我々はこれで失礼するよ。あとは二人でゆっくりしていきなさい。はい、これ琉夏ちゃんの帽子。返しておくよ。お大事にね」


「わかりました。後で琉夏に渡しておきますね。皆様ありがとうございます」


「えっ、いや、ちょっと!?」


 さすがに引き止めようとしたけれどもう遅い。町内会のみんなは「若い者はいいねぇ」などと言いながら去っていってしまった。


「休日だけど診療所開けてくれるって。良かったね。道ならさっき皆さんが教えてくれたから僕もわかるんだ。安心して」


 安心してと言われても……そう困惑しながら、私はなおも彼に抱き抱えられたまま。

 立てるかどうかはわからないけどこのままじゃいたたまれないのは確かだった。私は彼の顔を見上げる。



「あのっ、もう大丈夫なので」


「僕の名前、覚えててくれて嬉しかった」


「え……?」



「さっき倒れたとき、僕の手を握って“ハルキ”って呼んでくれたでしょう」


「ハルキ……さん?」



 潤んだ目に見つめられ、息が止まりそう。

 その名前にも覚えがある。記憶を少し辿ったけれど、やはりそれは近い場所にあった。



――違う。まだ終わってないよ――


――ハルキが迎えに来てくれるもの――



 それは『MINATO』の動画を見た日の夜。家で一人、お酒を飲んでいたときに自分の中から聞こえた声だ。確かにこう言ってたとハッキリ思い出せる。


 まさかのハルキ実在した!

 と、驚いてはいるものの、冷静に考えると特別珍しい名前でもないじゃないか。偶然の一致かも知れない。


 ああ……でも。


 そうやって無関係である方向に持っていきたくても、私が彼の名前を呼んだという事実が残ってるじゃないか。だからこそ町内会のみんなも私たちが付き合っていると思い込んでいるんだろう。

 多分このハルキって人、嘘は言ってない。状況が指し示しているのもあるが、根拠のない確信も何故か私の中にはあった。


 これ以上話を広げる気なんてないはずなのに、そう、何故か自然と唇が動いて。


「ハルキさん、あの」


「ん、どうしたの?」


「お名前の漢字はどのように書くんですか?」


 気が付いたら問いかけていた。

 それを訊いて何かわかるんだろうか。次なる確信を本能が求めているのは確かだった。


 彼は微笑みながら、でも少し寂しそうな目をして答える。


「季節の“春”に“輝く”」


「なるほど……」


「フルネームだと椎名(しいな)春輝(はるき)っていうんだ」


「椎名……春輝さん、ですか」


 特に何も起こらない、と思ったのは束の間のことだ。


 鼓動はさざ波から荒波へと移り変わるように強さを増していった。次第に息が苦しくなってくる。

 胸のあたりが疼いて、熱い。これはまさか。いや、そうだとしても軽々しく口にするのはどうなのか。ためらいはあったはずなのに、本能はいとも容易く私を突き動かす。



「春輝さん、もし違ったらごめんなさい」


「何が?」



「私たち、もしかして昔本当に付き合ってましたか」



 周囲の音がシン、と鎮まる。凪は再び訪れた。


 いや、正確に言うと凪いだのは私たち二人の間に流れる時間だったのだろう。



 しばらくして、血色の乏しい彼の唇がゆっくりと動く瞬間を見た。



「琉夏、僕は君のことを心から大切に想っていたよ。だけど付き合っていたのとは違くて……」


「友達、ですか」


「ただの友達でもいられなかったっていうか、その、一時的に深い仲になったことは……」


「ああ……」


 濁したような彼の言い方では詳細まではわからない。でもちょっと察してしまった私は、ますますいたたまれない気持ちになって無駄に姿勢を正したりなんかした。


「なんというかその節は失礼致しました」


「あ、いや。こちらこそ」


 抱っこされたまま意味不明な謝罪をすると彼もまた頭を下げてくる。やっぱり。この人、見た目は派手でも根は真面目なんだ。


 彼が切れ長な目をハッと大きく見開いた。驚いているような顔に私も驚く。

 しかしその原因は自分であったことにすぐ気付いたのだ。


 私は自分の頬に触れた。次に口元に触れた。

 やっぱり気のせいじゃない。さっき私はちょっとだけ笑ったんだ。


「あっ、その、今のは別に深い意味はないんです! 気を悪くさせてしまったのならすみませ……」


「そんなことない!」


「えっ」


「そんなことないよ」


 彼の……春輝さんの声は何処か悲鳴のようだった。まただ。身体の奥がざわついている。

 その場にしゃがんでそっと頬に触れられても、もはや私に為すすべはない。



「琉夏、もっと笑ってよ。もう一度僕に見せて」



 こうですか、と笑顔を作ってみようとしたけど、私がやるとなんだかふざけてるみたいになりそうだと思ってやめた。ましてやこんな真剣な人の前でそれは駄目だろうと。


 再び立ち上がろうとした彼に私はすかさず声をかける。


「春輝さん、あの、もう大丈夫です。自分で歩けるので下ろしてくれませんか」


「でも……」


「お願いします」


 キッパリと。強めに言うしかなかった。

 色っぽさなど皆無であるはずの私にこんな高鳴りは似合わない。彼に対して嫌悪感はないけど、自分自身の反応が気持ち悪くて仕方なかった。


 彼は観念したように頷いて、私をゆっくりと砂浜に降り立たせる。


 何故か目頭が熱くなった。視界がゆらいだ。彼が心配そうに私の名を呼ぶ頃にはもう鼻を啜ってた。


 本当に優しい人だ。あったかくて、誠実で。短い時間の中でもそれは凄く伝わってきた。人として好感が持てるのも事実だ。

 だけどもう会いたくない。会ってはいけない。自分が変になるから。怖いから。

 そんな一心で私は彼に背を向けそのまま一気に駆け出した。



「ごめんなさい……さようなら!」


「待って、そっちは海!」


「あっ」



 バッシャァァン!

 と、派手な音が降りかかると共に私はずぶ濡れになった。

 いや違う。私が間違えて海の方へ走った上に砂に足をとられて転んだのだ。


 やれやれ。

 私は全ての現象をギャグに変えてしまう才能でもあるんだろうか。

 すっかり重くなった髪をかき上げながら苦笑とため息を零す。


「うわ、すっげーロックな髪!」


「レインボーカラーだ! 斬新だねぇ、お姉さん」


 ちょうど海から出てきたサーファー二人に声をかけられて我に返った。

 バンダナは眼下の水面に浮かんでる。しまったと思ったけれど……さすがにもう遅いよね。


 もはや笑うしかない心境となった私は、砂浜にいる彼の方を振り返ってポリポリと頭をかく。


「いんや〜、すみませんねぇ。変なところばっか見られちゃって」


「琉夏、その髪の色」


「ああ、これですか。私も一体どうなってるのかさっぱり……」



「その色のセンスって……ミナト!? 君なんだね!?」


「はい?」


 気の抜けた声で聞き返したのも束の間。

 私は再び彼の腕の中に包まれる。今度はひったくるようにして強く、荒くだった。


「お〜お〜、熱いねぇ、お二人さん」


「若いモンは大胆だねぇ」


 周りから冷やかされてるけど彼はお構いなしみたいだ。私の肩の上で咽び泣いている。遠ざけることも出来ない。

 しょうがない、この人が落ち着くまで待つか。そう思ったはずなのだけど。



「ねぇ、ミナト。あのとき僕を求めたのは君の方だよね」


「ああ、そうだよ。でもアンタはいつだって琉夏のことばかり見てた」



 ……え?



「誤解だよ。僕は琉夏であるときの君もミナトであるときの君も、変わらず大切なんだよ」


「だから! アンタのそういうハッキリしないところが嫌なんだ」


「ごめんね」


「真に受けんなよ。少しは抵抗してこい、馬鹿」



 ちょっと待って。



「ミナト、どうして急にいなくなったの」


「それは……」


「…………」


「それは、ごめん。アンタにこれ以上迷惑かけたくなかったんだ」


「そんなの酷い」


「……ごめんって」



 待て待て。何故会話が成立しているんだ。



 さっきから聞こえているのは春輝さんと私自身の声。つまり私が話していることは間違いないのだ。

 しかし感覚としては“コントロール不能”。私の声を使って誰かが喋っているとしか思えない。


 そんなことがあるのか。呆然としているはずの私の頬には熱い感情の残骸が幾つも流れている。



「ミナト。琉夏。お願い、もう一度やり直させて」


「もう一度って、アンタ……」



「MINATOの助手としてでいいから傍にいさせて」



 自分自身でありながら、置いてけぼり。

 その後のやり取りはいくつかあったのだろうが、途中からほとんど頭に入ってこなくなってしまった。

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