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 その日の放課後、愛海はほとんど人のいない図書室に入り、片っ端から「家族」というタイトルがあるものについて手に取ってはページを捲ってみた。小説、エッセィ、自伝に伝記、果ては百科事典までをテーブルに運んで積み上げると、眠くなるのを我慢しながら一生懸命にそこに書かれていることを頭に入れようとした。

 

 そもそも愛海は最初の父親の顔を知らない。愛海が生まれてすぐに家を出て行ったからだ。次の父親は悪い人ではなかったけれど、酒癖が悪かった。普段は自動車の修理工としてにこやかに応対をしているのだけれど、アルコールが一滴でも入るともうエンジンが全開になる。笑ったり泣いたりするくらいなら可愛いもので、普段は絶対に口にしない客の悪口から何故か母親や、まだ小さかった愛海への愚痴に方向転換し、果てはそこら中を殴ったり蹴ったりする。壁や床が凹み、茶碗は割れ、グラスは砕け、椅子は何本も足が折れた。母は愛海を守る為、離婚を決意した。別れてからも「酒さえ飲まなかったらねえ」と何度も言っていたから後悔はあるのだろう。

 その母も三度目ともなると流石に結婚という選択はしなかった。最初から子ども嫌いを公言している男性で、当時はパン屋に勤めていた母に会いたくて毎日通っているような、後になって考えてみれば随分と可愛らしい人だった。ただあれこれと決め事が多く、付き合うようになってからもデートは必ず二人だけで、愛海は留守番をしていて、それでもケーキやらまんじゅうやらをお土産に持たせていたのは何かしら罪悪感が働いていたのかも知れない。だから三人目の父親とは長続きはしなかった。それが三年前の話だ。

 

 四人目、今のガブリエルが父親になったのはまだ一年前のことだ。どういう経緯で二人が出会ったのかは知らないけれど、ある日学校から帰ると、


「この人、ガブリエルさん。愛海の新しいお父さんね」


 まるで何年も同居していた住人だったかのような顔で「やあ」とにこやかに挨拶をしてくれたのを覚えている。

 そう。ガブリエルさんだけが最初から父だった。彼氏でも男の人でもなく、母親は愛海に対して「お父さん」と紹介したのだ。

 だから特に考えることもなく新しい父親として愛海はその陽気なフランス人男性を受け入れた。もう十歳だったということもある。普通の家庭で育った訳ではない、色々複雑な状況を多く経験した十歳というのは、周囲が思っているよりもずっと色々な物事に対して大人びた考えを持つことが出来た。それをして「大人っぽい」とは誰も言ってはくれない。精々「可愛くないガキ」だ。


「あーあ、全然わかんない。そもそもの問題がどうして籍を入れなかったのか、ということなんだよね」


 天井を仰いで独り言を口走ってしまった愛海に、アルバイトで来ている眼鏡のおばさんの咳払いが響いた。

 結局何も収穫がないまま、愛海は図書室を後にした。

 

 わたしの家族について――と題した原稿用紙はそこから一行、いや一文字として書かれていない。岩城愛海という名前も記されてはいない。愛海は自分の部屋の勉強机に張り付きながら、ぶつぶつと「家族」について考え込む。

 そもそも愛海以外のごく一般的な家庭なら、生まれた時には既にそこにあったものだろう。母親がいて、父親がいて、兄弟だっているかも知れない。同居していればおじいちゃんやおばあちゃんもいて、あれこれと構ってくれる。一緒にご飯を食べて、たまには公園で遊んで、悩み事があれば相談もして、馬鹿な話で笑ったり、映画やドラマを見て一緒に感動したりする。確かにそういうことは学校の友だちでも出来るかも知れないけれど、友だちはずっと一緒にいる訳じゃないし、そもそも作らないといけない。けど家族は最初から、そこに与えられているものだ。

 普通ならそれでいいし、きっと愛海みたいに悩む必要はない。普段の生活をそのまま作文にして、両親への感謝の気持ちでも最後に書いておけばそれで充分なのだ。

 

 ――そもそもあんたんち、家族って言っていいの?

 

 綾香に言われたその言葉が、意外と頭に残ってしまっている。

 今の愛海たちは果たして“家族”なのだろうか。それとも“家族じゃない”のだろうか。

 考えていてもらちが明かないと思った愛海は翌朝、フランスパンにピーナツクリームを塗りながら「ねえ」と二人にある質問を投げかけた。


「どうして籍、入れないの?」

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