3:狼に成れなくても

 子狐は泣いていた。


 日が暮れ、少年が立ち去った神宮寺で一匹ひとり、とめどなく涙を流していた。




 暴漢は鐘が鳴るまでヨシアキを蹴り回した。少年たちが立ち去った後、よろよろと立ち上がったヨシアキは、いつもと同じ笑顔でアカネに笑いかけた。




 涙が止まらなかった。


 何故この体はこんなに小さいのか、何故こんなに痩せ細っていて、何故こんなに軽いのか。

 もっと頑丈な爪が、もっと強大な牙が、荒振あらぶる狼のようなちからが有ったなら、餓鬼ガキどもの喉笛を引き裂いて恋しい少年を守れたものを……




 しゃん、と。


 錫杖の音がした。




「あや、経立ふったちかと思えば化生けしょう魑魅ちみたぐいですか。ほど、子供のなりをしておる」


 子狐が顔を上げれば、旅装束の尼僧がいた。何時いつに来たのだろうか。

 繕いを重ねて色褪せた墨染すみぞめ、ざっくばらんに尼削ボブにした髪、粗末な装いながらも、尼僧は美しかった。




 余りにも。

 人とは思えぬほどに。




 尼僧は何故か、数珠に繋いだ金槌を首から下げている。頭の黒錆といい、柄の蜜蝋といい、途方もなく年季の入った金槌であった。


「さて子狐、子狐や、何を泣いておるのですか」


 その金槌を大事だいじそうに胸にいだきながら、優しい声で尼僧は子狐に問いかけた。


 子狐に、である。


 恋しい少年に、餌は美味いか。と問われて、こんと鳴いて答えたことはあったが。

 是か非かで済まぬようなことを、問いかけられたことなど、ついぞない。この尼僧、狐の言葉が解るとでも言うのだろうか。


 子狐はつらく悲しい胸の内を、懇々と、こんこんと、尼僧に打ち明けた。

 有ろうことか、尼僧は子狐のくやな鳴き声に何度もうなずきながら、ただすすく声が響くだけになるまで傾聴を続けたのである。




嗚呼ああゆるがたや、許し難や…… 所詮は畜生の性根しょうねゆえでしょうか。六百余年も歩みながら、悟りの道の何と遠いことか」


 尼僧は拳を握りしめて立ち上がる。

 楚々とした唇から、ぎり、と歯のきしる音がした。


「アカネや、アカネ。もう嘆くことはありませぬ」


 鼻息も荒く、尼僧は言った。


「なるほど確かに、狐は非力。虎の威を借るが精々せいぜいの小賢しき畜生。狐火きつねびが怨敵を焼き滅ぼしたいわれなど在りもせず、毒の夏草赤なつくさあか露暑つゆあつしが関の山。大神真神おおかみまかみ爪牙そうがに比べればまこと験無げんなきことでしょう」


 やたら小難しい尼僧の言い回しであったが、子狐には不思議と理解できた。


「されど」


 尼僧が笑う。

 花の唇から、犬歯が覗く。


かずきわめたところで、卦見けみに暴かれ武弁ぶべんに射られ、禅師ぜんじ調伏ちょうぶくされるが狐の分際ぶんざいなれど、八万の軍勢を嘲弄ちょうろうし潰走せしめるも、また狐の仕業しわざ


 しゃん、と。


 妖しくも神々しく錫杖を鳴らした尼僧は、よいせ、と頭陀袋ずだぶくろを下ろすと中身を漁り始めた。




「修羅には修羅の、畜生には畜生の戦い方が有るというもの。さあさ、その糞餓鬼クソガキの目に物見せる狐の秘伝、其方そなたさずけてしんぜましょう」

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