影の薄い人
連喜
第1話
例えば、会社で回覧を回す時。Aさん、Bさん…とすぐに名前が挙がるような印象に残る人とそうでない人がいる。こういう時は嫌な人も忘れない。というか、忘れられない。名前を最後の方に持って来ると文句を言って来たりするから、無意識に最初の方に書いてしまう。
例えば、うちの課は十人だけど、名前を書いてみたら八人しかいない。あれ…と首を捻って机の配置を思い出しながら、「あ、Fさんを忘れてた」と気が付いて、書き足す。それで、うっかりして回覧を回してしまう。俺は本業の仕事は気を付けるけど、そいういうどうでもいいことは始終ミスしてしまう。
そのうち、忘れられたJさんから「名前がないんですけど」と申し出がある。随分失礼な話だけど、こっちは本気で忘れている。
ちなみにJさんは男性だ。年齢は三十代で独身。大学は日東駒専クラスの所だと言うことだったと思うけど、プライベートな話を聞いたことはない。眼鏡をかけていて中肉中背で、顔は取り立てて不細工でもなくイケメンでもない。まさに普通だ。無口な人でほとんど話したことはない。仕事は普通にやっていたらしく、たまに小さなミスがあるくらいだった。客からの苦情も特になかった。まさに組織の歯車。できる人はそれが当たり前になり評価されることもない。
回覧の件は取り敢えず謝ってそれっきり。Jさんはそのうち辞めたけど、上司が送別会をやると言ったら、本人が断って来た。辞めた理由は親の介護だったと思う。これは偏見だけど、介護でやめると言うのが本当でない場合もある。介護でやめると後腐れがないと言っていた人もいるくらいだ。
介護もいろいろだ。自宅で自ら介護している人ももちろんいるけど、デイサービスや訪問介護を利用して自分ではほとんど何もしていないこともある。運動のために散歩に付き合ったり、病院の送迎などくらいで済んでいたりしている場合もあるのだ。こういうのは俺の意見じゃなくて、どこかの職場の人が言っていたことだ。
俺はその後、転職して完全にJさんの存在を忘れていた。つまり、Jさんはこの世に存在しないのと同じくらいだった。
こんな風に書いていると、Jさんがこうして記憶の中に浮上してくるのはおかしいじゃないかと思うだろう。
俺がJさんを思い出した理由。それは共通の知人から聞かされた、あることがきっかけだった。
俺は前に勤めていた会社の人と飲みに行く機会があった。その人は今も同じ会社に勤めている、元先輩だった人だ。専門卒でずっと同じ会社で働いている。俺は退職後に二社も転職していた。やめてからかなり経っているけど、気さくでいい人だから未だに交流があった。
なぜかチェーン店の中華やファミレスで会うのが定番だ。先輩は妻子がいて住宅ローンを抱えているから、値段が安くて長居出来る店に落ち着く。独身の俺からしたら、そういう店に行くとコスパの良さに感動するくらいしかメリットはないのだが。
目の前には、単価が安くて量も少ない料理の皿が数枚並べられていて、酒は亜硫酸塩が入っている安い白ワインだ。それでも、空腹でつい手が伸びてしまう。
「いいなぁ、江田君は大企業に勤められて」
「え…、そうでもないですよ。俺なんて忙しすぎて未だに独身ですよ」
「お金があれば若い子と結婚できるよ。いいなぁ。大企業ってかわいい子多いんじゃない?」その人はもう五十代だけど未だにギラギラしているみたいだった。
「でも、かわいい子はみんな彼氏いますよ」
「でも、いるだけいいじゃん。うちなんか…」
失礼だけど小さい会社に勤めているとそれなりの人しかいない。すごくかわいい子は大きな会社に集まりやすいのは確かだと思う。
「そう言えば、この間、Jさんが会社に来てさ」
「Jさんって誰でしたっけ?」
「覚えてない?」
「はい。男の人ですか?」
「うん。中途で入って来て、五年くらいでやめたと思うけど」
「あ・・・覚えてないです。俺、人の顔も名前もすぐ忘れてしまって」
「その人がさ、いきなり会社に来て、もう一回雇ってもらえないかって言うんだよ」
時は変わってその人は今は部長になっている。
「あぁ~、そういうことですか。仕事がないとか?」
「うん。今、失業しているらしくてさ。電話して来るならわかるけど、いきなり尋ねて来るなんて迷惑だよな」
「変ですね」
「だよね。ちょっとおかしくなってて、会社を辞めた後、保険の営業とか全然関係ない仕事をしてたんだよね」
「はあ」
「この職歴だと無理だと言ったら、僕はあんなに頑張ったのに、全然評価もしてくれなくてって愚痴り始めてさ。江田ってやつには存在を忘れられてて、回覧を回す時も名前がなかったって文句を言ってたよ」
「えっ…」
俺は固まった。そんなに長年恨まれていたことに俺はショックを受けていた。会社を辞めたのは二十年以上前だった。俺はもともと注意力が散漫で忘れっぽい性格なのだ。悪気はなかった。しかし、本人は嫌がらせだと思って、本気で怒っていたかもしれない。
「人の恨みって怖いですね」
「うん…」
「だって、その人がやめたのって、二十年前じゃないですか。また働くなんて無理に決まってますよね。普段から交流があるならわかりますけど」
「でも、その人にとっては、二十年前もつい最近なんだろうな」
「で、どうしたんですか」
「土下座したり泣きわめいたりしてさ。最後の方は、雇ってくれなかったらここで死ぬって言って、カバンから包丁だしてさ。さすがに警察呼んだ」
「えっ…」
俺はあんなに平和なオフィスに警察が来るなんてとショックを受けていた。
「だから俺も怖いんだよ。Jさんがまた会社に来たらどうしよって…。江田君も気を付けた方がいいよ」
「え…。俺、、、会社辞めてますし」
「でも、君、Facebookやってるだろ?」
「はい」
そう言えば、知らない人から友達申請が来ても、仕事で会った人だと思って誰でも承認していた。ちょっとオープン過ぎたかもしれない。
「ちょっと気になってさ」
先輩は意味ありげに笑った。
「警察に連れて行かれる時、Jさん、君のこと絶対許さねぇからな、って叫んでたからさ」
その時、五十代の禿げ散らかしたおっさんが警察に羽交い絞めにされて連行されて行く姿が目に浮かんだ。Jさんの顔を何となく思い出していた。
「怪我はありませんでしたか?」
「ほら」
先輩が無言でワイシャツの腕をまくると、八センチくらいの切り傷を縫合した跡があった。
「骨までいっちゃってさ。ここ神経がおかしいんだよ。傷が治ってるはずなのに、今も痛くてさ」
****
俺はそれから見えない影に怯えている。
外に出る時は、Jさんがどこかから見ている気がして仕方がない。
俺は道を歩いていても何度も後ろを振り返りながら歩くようになった。
俺の方が不審者だ。
Jさん、おめでとう!
あなたは今では俺にとって忘れられない人になりましたよ!
それを伝えてあげたいけど、どこにいるかわからないから言えない。
ただ、もし彼に会うことがあったら伝えたい。
嫌がらせだと思ってたんだったら、すいませんでした。
俺は本当はあなたの気を引きたかったんですよ、って。
影の薄い人 連喜 @toushikibu
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