第7話 めちゃくちゃ可愛い“小悪魔みなみ”




 ちょうど昨日、関東甲信地方が梅雨入りしたとニュースで報じられた。


 平年よりは1週間ほど遅いらしい。ということで早速雨が降るのかと思いきや、雲が広がっているものの雨が落ちてくる気配はない。


 そんななか三浦はひとり上機嫌で、放課後を今か今かと待ち侘びていた。机の上で指を運ばせたり、机の下でこっそりとクラシックの楽曲を検索したり、頭の中はもう音楽でいっぱいだった。


 やがて長すぎる授業が終わると、三浦は最上階へ急いだ。


「健一どこ行くんだ?」


「用事!」


「ちょ、待てって。今日帰りに俺んち寄ってけ――」


「わりい! 今日は無理だ」


 大塚を振り切って、彼は階段を上がった。


 ちなみに今日あさひが居る保証はなく、約束も取り付けていない。だから彼は「連絡先を交換しておけばよかった」と後悔をしていた。


 果たして、彼女は居てくれるのだろうか。

 階段を上がり終え、高まる胸を押さえながら倉庫室の前まで行く。


 扉を開けた。


「……いないか」


 がらんとした殺風景な空間が広がっているだけだった。

 やっぱり、連絡先聞いとくべきだったな。


 来るかもしれないと思い、三浦はしばらくピアノに着いて待っていた。だが20分ほど待ってもあさひは現れなかったため、帰ることにした。ほんのちょっぴり寂しい気持ちになりながら、カバンを肩にかけ、倉庫室を出る。


 大丈夫だ。また明日か、明後日にでも来ればその時は居るだろう。彼は自分をそう慰め、突き当りの階段を下る。


 その瞬間だった。


「ざけんなこらぁ!」


 えらくびっくりして、ちょっとだけ跳んだ。

 咄嗟に体を屈め、それからゆっくりと階段の上を見上げてみる。


 怒号の発生源は明らかに階段の上だ。ここが最上階だから、よりさらに上の屋上までの通用口に誰かがいる。彼はそのままの位置でしゃがみ、息を殺す。


 すぐに立ち去らなかったのは、好奇心だったのかもしれない。


「ごめんって」


「テメー俺のことなめてんだろ?」


 男子と女子。

 喧嘩中。


 関係性は……まだ分からない。


「ねぇ本当、もういいじゃん」


「あんだその言い方! 大体お前が言い寄ってきたから――」


「うっさいなあもう!」


「はっ?」


 おっと、遂に女子のほうもキレた。


「冷めたんだよもう。めそめそ言ってんじゃねーよこの女男!」


「てっ……てめぇ……」


 バチン――。


 豪快な音が階段じゅうに響き渡った。


 三浦は冷静に、平手打ちの音だと解釈をした。時が一瞬止まったのち、口を開いたのは男子のほうだった。


「調子乗んなよ。ちょっと人気があるからって」


「……」


 会話が続くことはなく、上履きらしい足音が下ってくる。

 やばい……こっちに来る。


 三浦はさらに小さくうずくまって、ただただ待った。盗み聞きをしたことについては、半分後悔をしていた。


「覚えてろよ」


 ぼそりと落とされた声に、思わず顔を上げる。


 自分に言ってるワケじゃない――男子は虚ろな顔をして彼の横を通り過ぎていった。踊り場を曲がって姿が見えなくなったとき、思わずため息が、空気をパンパンに入れたビーチボールのように出た。


 いったい何だったんだろう。


 中学に入って2年目の初夏、誰々と誰々が付き合ってるとか、好きだとか嫌いだとか、噂程度では聞いている。だが、こうして男女の修羅場に遭遇することは初めてだ。


 だから大袈裟かもしれないが、例えるなら都市伝説に遭遇したような気分だった。


 そういえば女子のほうは大丈夫だろうか。三浦は忍び足で階段を上がり踊り場からそっと覗いてみる。

階段にしゃがみこんで頬を押さえるひとりの少女がそこに居た。


「なに?」


 しまった――。


 三浦は咄嗟に顔を引っ込める。ところが、


「いや、バレバレだから。顔出しなよ」


「え……」


「はやく」


 冷たい声はこちらに向いている。


 三浦は観念して、恐る恐る顔を出してみた。階段の上に座る少女は鋭利な目つきで彼を見下ろしていた。ずいぶんと威圧的だったけど、彼はそれよりも刺激的な角度に耐えきれなかった。


 視線をそらした三浦に少女は言う。


「パンツ、見えるでしょ?」


「あっ、いや……」


「こっち来てよ」


「うん」としか言えなかった。


 少女は手のひらを階段に置いた。ここに座りなさい、と言いたいんだろう。三浦は恐る恐る彼女の真隣りに腰を下ろす。


「ねえこっち向いて」


「えっ」


 少女は妙に甘えた声で言う。


「私の顔、ちゃんと見て?」


 少女は上目遣いをしていて思わず目を逸らした。


 一見あどけないが、実は目鼻立ちがくっきりして洗練された顔つきをしている。肌は赤ん坊のように瑞々しく、頬はうっすらと紅い。そんな人形みたいな顔がくしゃっと崩れ、彼のことを見つめている。


 控えめに言っても、めちゃくちゃ可愛くて見てられなかった。


 小悪魔みなみ――彼女のことを三浦はよく知っていた。というよりは、彼女はこの学校では有名人である。男心をくすぐる幼い顔立ち、洗練された小悪魔テクニック、これらにより彼女は学年問わず多くの男子を手中に収めていたのだ。


「ちょっと聞いてるの?」


 それからみなみの小さな手が太ももに置かれる。

 どきん、どきんと心臓が跳ね上がっていた。


「ヘンなこと想像してないでさ……ほっぺた見てよ」


「ほっぺた?」


 三浦は言われたとおりに頬を見る。


「……右?」


 ようやくみなみの言いたいことが分かった。右の頬が赤く腫れていたのだ。三浦はすこしだけ自分のことが恥ずかしくなった。


 彼女は上目遣いをしたまま、こくりと顎を引く。


「キミから見たら右だけど、あたしから見たら左」


「……大丈夫?」


「大丈夫じゃないよ。すっごく痛かったもん」


 みなみの瞳が潤い、溢れそうになる。三浦は慌てふためいて、咄嗟に謝った。


「あーあーごめん! なんかその、ごめん。大丈夫か?」


「……もっと、ちゃんと謝ってよ」


「あ……ごめんなさい」


 ん? 何かがおかしい。


「キミが助けてくれればビンタされることも無かったんだからね」


 頬を押さえながら少女は責める。


「ごめん。次はなんとか、ていうか次が無いほうが良いんだけど」


「そもそもキミさ、こんなとこで何してんのさ」


「え? なにって……」


 みなみは人が変わったように笑い、下から覗き込むようにアイコンタクトを送る。三浦が耐え切れずに視線を外したことは、言うまでもない。


「何もったいぶってんのさ、言いなさいよ」


「いや、倉庫でちょっと用が」


「倉庫でどんな用があんのさ」


「んーと色々あって」


「その色々がなんなのさ」


「……んと、ピアノ、ピアノに用があってというかなんというか」


「ピアノ?」


 三浦は嫌々、首をかしげながら頷く。

 みなみは無表情のまま固まる。


「ピアノってピアノ?」


 ピアノ以外のピアノを彼は知らない。だから「ピアノだよ」とだけ返した。


「え、ピアノ弾けるの? めっちゃギャップじゃん!」


「いやいや、弾けないんだよ」


「はいはいいいからそういう嘘。はい行こ―!」


「嘘じゃないし、てかどこ行くんだ?」


 いつの間にかみなみは三浦の手首をつかんで階段を下っている。されるがままに付いていく彼だったが、彼女の言葉で足が止まった。


「ピアノに用があるんでしょ? あたしも行く」


 彼が止まったせいで、前を歩くみなみの体も必然的に止められる。彼女は振り返って「何止まってんのさ」と笑った。


「いやいや、弾けないって」


「だから嘘はいいって」


「嘘じゃなくて本当に弾けないんだよ」


「弾けないやつがなんでピアノに用あるんだっつの」


 うーん、返答に困る。

 腕がぐいぐいと引かれ、ついに彼は階段を下りる。廊下の先に倉庫室のプラカードが見えてきた。


「やっぱり時代は知的な男子だよねー」


「だからぁ……」


 そういえばさっき揉めていた男子は、ちらりと見た感じヤンキーっぽい身なりをしていた。どうせ小悪魔みなみのことだから、散々弄んだ挙句に切り捨てたんだろう。


「あ、もし弾かなかったら言い触らすからよろしく」


「は?」


「あたしにビンタしたこと」


「……いやいやいや! それはおかし――」


 あまりの暴論に驚いている三浦を無視して、彼女は倉庫室の引き戸を開けて入っていく。


「ほいっよろしく」


「いやいや……」


 なんだこの子は。いくらなんでも無茶苦茶すぎるだろ……。


 未だ状況についていけてない三浦を無視するように、みなみは机に腰掛け、足を組んだ。すらりと伸びた生足がギリギリのところでスカートに隠れている。机に接しているところはお尻なんだろうか……。


 自分がもし変態ならば、彼女が去った後にの机を頬ずりするのだろう。


 しかし、それにしてもどうしようか。


「なんでもいいよん」


「なんでもって……」


 三浦は力なく、椅子に腰を落とす。

 蓋を開け、キーカバーを外した。

 なんでもいいと言われても、彼には平均律第1巻、1番のプレリュードしか弾けないのだ。


 鍵盤に指を当て、優しめに押し込んだ。


 相変わらず重たくてコントロールはできてない。


 それでもこの前よりかは打鍵がスムーズだった。川のような流れを意識して指を運んでみる。だが、やっぱり川みたいな綺麗な音色は生み出せずに音は荒れた。


 ひとつひとつは汚く、統率の取れない音。

 だけれど、彼はペダルを踏むことで誤魔化した。汚い音が混ざり合って、濁流のように流れていく。正直、聴くに堪えない演奏だった。それでも記憶のままに指は動いて、曲の終わりへ近づいていく。


「……ふぅ」


 ひとつ収穫を上げるとするならば、前回弾いたときよりも記憶が確かになっていたことだった。三浦は打鍵ミスなく、1曲を弾き終えた。


 はっとして彼は顔を上げた。


 忘れてた。ギャラリーがいたことを。

 みなみは真剣な顔つきで彼を見つめていた。


「キミさ……」


「え?」


「いい!」


 みなみは走り寄って、勢いのまま三浦に飛びついた。




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