第5話 「恋でもしてる?」




 思考を重ねた結果、あさひに会いに行くことにした。

 明くる日の休み時間、今度は陽キャの力を借りずに真っすぐ彼女の席まで歩いていく。この日も彼女は手元の本に視線を落としており、三浦の存在に気付く気配はない。


 もう目の前に立っているというのに。


「あさひさぁ」


「ひゃっ」


 あさひ、びくっと震えながら顔を上げる。


「三浦くん」


「あのさあ、やっぱりお願いなんだけど、ピアノ弾いて欲しいんだよね」


「ちょっと三浦くんっ」


 あさひは突然立ち上がり、それから三浦の腕をつかんで走り出した。彼は訳が分からずただ引かれるがままに廊下へ飛び出した。彼女はなおも走って階段の踊り場にたどり着いたところで、ようやく足を止めた。


 がらんとした踊り場で、あさひは三浦と向き合う。

 まだ、腕は握られたままだった。


「誰も知らないの」


 小さな手に力がこもる。


「え?」


「私、クラスの誰にもピアノの話してないの。ごめんなさい急に」


 謝罪の言葉とともに、ようやく彼の腕から手が外された。それでもまだ握られているような気がして、ずいぶんと長いこと触れられていたことを実感する。


 それにしても誰も知らないなんて……。

 そんなにも人前で弾くことが嫌なのかな。


「なんでなの?」


 ずっと思ってたストレートな疑問だった。


「あれだけ弾けるのに、上手なのに、なんで弾きたくないのか聞いてもいい?」


「それは……その……」


「あ、ごめん。言いたくないなら無理にとは言わないんだけど」


「いや、その私なんかが断るとか、そんなの本当におこがましいんだけど……人前でほとんど弾いたことがないから、その、自信もないから……」


 人前で弾いたことがない?

 それなら弾いてみればいいのでは?


 そんな単純な思考に行き当たる。


 だが、あさひは目が泳ぎっぱなしで、明らかに動揺していた。


「だから本当に、三浦くんがピアノのこと褒めてくれるの本当に、うれしいんだけど、文化祭で弾くことは……できない」


「……そうか」


「あ、でもね……」


 ずっと視線が定まらなかった彼女が、はっきりと三浦の瞳を見た。


「三浦くんなら、三浦くんの前だったら、いつでも弾くから。私なんかでよければいつでも、弾ける限りなんでも弾くから」


「俺の前……だったら?」


 あさひはこくりと頷き、糸のような声で紡ぐ。


「私、三浦くんだったら、聴いて欲しい」


 彼は掛ける言葉を見失った。


「ごめんね。じゃあ、行くね」


 あさひは三浦を置いて廊下を掛けていった。もうそこに居る意味がないのに、彼は暫く立ち尽くしたまま宙を見つめていた。


 俺に聴いて欲しい?

 弾ける限りなんでも弾く?


 彼女の言った言葉の意味が、彼には理解できなかった。だって、人前の演奏がをあれほど頑なに拒否するのになんで自分だけが良いんだろう。三浦はその場で聞かなかったことを後悔してうしろを振り返るが、当然彼女は既に姿を消していた。


 あれか、もう聴かれてるからなのか?

 そうだ。彼女のピアノを聴いているのは自分だけ。

 そういうことにしておこう。


 納得させたその時、授業開始のチャイムが鳴り響いた。








 毎週恒例、文化祭委員(川崎さんと)の話し合い。三浦のクラスはとうとう具体的な段取りを組む段階に進んでいた。


「あっつい……」


 川崎は肘を突いて、うちわでぱたぱたと胸元に風を送り込んでいる。無理はない。6月も下旬に差し掛かり、セミが登場していないだけで殆ど夏みたいな毎日だから。


 空はどんより曇っているが、この日も最高気温は27度まで上がると天気予報で言っていた。


「ねぇ、暑くないの?」


「ちょっと暑いかな」


「全然平気そうじゃん」


 三浦は軽く笑って流した。正直なところ、騒ぐほど暑いとは思えないから、川崎に共感できない。


「はい、これプリント」


 彼は差し出されたプリントを受け取り、そのまま机上に置く。


「それにしてもアートになるのは予想外だったね。私は演劇になると踏んでたんだけど」


「そうだね」


「それでね、これが概要」


 結局1組の出し物はモザイクアートに決まった。因みにモザイクアートとは、小さい写真や絵の欠片をモザイクのように組み合わせて作る作品のことであり、専用のソフトなどもある割とメジャーな出し物である。


「意外と手順が多くてね、ここ見て」


 川崎は身を乗り出して、三浦のプリント上で文章をなぞる。


「データを作ったりして意外とすっごく大変なんだよ」


「そうなんだ」


 川崎はむっとした顔で下から見上げた。


「ちょっと三浦くん?」


「はっ」


「まーたぼうっとしてるでしょ!」


「あ……ははは」


 三浦は調子よく頭を掻いて、ごめんごめんと平謝りをした。正直のところぼうっとしていた。ああ文化祭のことを話してたんだ、と思った。


「ねぇ、もしかしてさ」


「ん?」


「恋でもしてる?」


「は?」


「ほらやっぱり恋でしょ! いっつもぼーっとして誰のこと考えてるんだー?」


 川崎は含みのある表情で揶揄った。彼は慌てて両手を振って否定する。


「違う違う恋なんかしてないって」


「じゃあ元からそんなぼーっとして人の話を聞かない人なの?」


「別にそういうワケじゃないけど……」


「いやどーゆーことやねんっ」


 川崎は力が抜けてしまったようで机に項垂れ、顔だけを彼に向けた。第2ボタンを開けている彼女は、ワイシャツの隙間がやけに無防備だった。


 こちらは頑張って視線を置かないようにしてるのに、彼女はそのままの角度で話を続ける。


「別に恋してることは恥ずかしくないぞっ?」


 白い歯が目立つ。揶揄って楽しんでいる笑みだ。


「だから違うって」


「もうシャイなんだから」


 でも三浦は内心、核心を突かれるほどではないにしても、覗かれるような感覚を覚えていた。確かに最近はあさひのことばかりを考えている。


 初めて見たときの可憐なあさひ。

 頑なに人前での演奏を拒否するあさひ。

『三浦くんだけになら聴かれても良い』と言ったあさひ。


 それが好きなのかと問われると、多分そういう感情ではないと思うんだけれど、日常をあさひが支配しつつあることは確実だった。


 やっぱりふとした時に思いだすのは、あさひが弾いている可憐な姿と、真珠のような音色なのだ。


「んふふ。じゃあ今度好きな人紹介してね」


「……そうだな」


「……えっ?」


 三浦はどうしても諦めたくなかった。


 頑なに断り続ける彼女の心境は分からない。何か理由はあるんだろう。でも、その殻を破りたい。だってせっかくの才能なんだ。烏滸がましいかもしれないけれど、知ってしまった以上、もう彼にはほっとけなかった。


「川崎さん……ステージってまだ空いてるかな?」


「ステージ……ってあの休み時間のステージ利用の件? 空いてるけど?」


 三浦はしばし思考を巡らせる。川崎は茶化すように笑って「それ恋にカンケーあるの?」と尋ねる。


「あのさ、なんだろう、野球がうまいのに人前でやりたがらない人っているじゃん」


「は?」


「絶対試合に出た方が良いのに人前でやりたがらない人っていうのかな」


「えっおかしくないそれ?」


 川崎は仮説を否定する。


「そもそも野球ひとりじゃできないじゃん」


「あ、そうか」


「ねぇ、何が言いたいの?」


「あ、それなら、リコーダー」


「リコーダーがどうしたの?」


「リコーダーがめちゃくちゃ上手いのに人前でやりたがらないんだ。でもその人はものすごい演奏をするんだよ。絶対に披露した方が良いのにどうしても拒むんだ。どうしてだと思う?」


 川崎はゆっくりと突っ伏した体を起こして、それから腕を組んだ。真剣に考えている顔だ。しばらく視線は宙に浮かんでから、ややあって三浦の元に戻ってくる。


「怖いんじゃない?」


「怖い?」


「音楽やってる子のなかでそういう子っているよ。中々やらない人には分からないかもだけど」


「それは失敗する怖さ、ってこと?」


「それもあるし、それだけじゃないと思うよ」


 いまいち、川崎の言っていることが理解できない。


「俺はさ、あそこまで頑なに拒否をするのが、なんか引っかかるんだよな」


「まぁ音楽やってる人にはいろいろあるからねぇ」


「そういうもん?」


「ん。誰もが聴かせるためにやってないからね」


 まるで音楽経験者のような口ぶりだった。実際に彼女が音楽をやっていたのかどうかは聞いたことがないから分からない。でもたとえ音楽経験者だったとしても、


『聴かせるためにやってない』


 これはちょっと自分には理解できないかもしれない。


「でも無理しなくていいよ。正直ステージがここまで決まらないのは予想外。埋まらなければ今年はステージ中止にすればいいんだし」


「いや、違うんだよ」


「何が違うの?」


「そうじゃなくて、俺はあの子に演奏してほしいんだ。」


 川崎はきょとんとした。


 逆に三浦は、くすぶっていた思いに火がついてしまった。


「あんな感動できる演奏を俺は知らない。あの素晴らしい才能を俺だけが知ってるなんて絶対おかしいと思うんだ。だからこの文化祭で彼女に弾いてもらってみんなにこの感動を知らしめたいんだよ」


「三浦くん……?」


「だって彼女の演奏は本当にすごいんだ。なっていうか、こう、世界が変わるっていうか。それに、あんな感動させる演奏をして、誰にも聴かせないなんてやっぱり俺には考えられない」


 三浦は息継ぎをしてさらに続ける。


「彼女も本心では、実はいつもステージを思い浮かべて演奏してるんじゃないかって、そう思うんだ! だから、俺はそれを破りたい。殻を破ってやりたい」


「三浦くん……」


 川崎のぽかんとした顔はだんだんと緩んでいって、ついに優しい笑顔になった。


「素敵じゃん!」


「素敵? 俺はただ正直に思ったことを」


「その思いが素敵なんだって」


「そう、かな……?」


 三浦に着火していた炎は冷静な彼女によって鎮火された。


「なるほど。そのことで悩んでぽかんとしてたわけか。三浦くん、見直した!」


「でも結局……俺にできることなんて無いんだよな」


「そうかな?」


 思わず、川崎を見る。

 どこか自信を含んだ口調に、三浦は胸の奥で期待を寄せた。


「その子は人前での演奏を嫌がってるんだよね?」


「うん。演奏自体は、好きだと思う」


「なるほどね」


 腕を組み、じっと三浦を見つめる彼女。


「それで三浦くんは人前で演奏してほしいんだよね」


「そうだ」


 改めて考えてみると違和感を覚えた。ひょっとしたら自分は、ものすごく自分勝手なことを言っているんじゃないか?


 なんだか、少しだけこれまでの自分の行動が嫌になった。


「一緒にやってあげたらいいんじゃないかな!」


「ほほう……うぇ?」


 一瞬、意味が分からなくなった。



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