第4話 人前で弾きたがらない彼女




 遠い目でこちらを見るあさひ。

 その胸の前には三浦の手を包み込む両手がある。

 柔らかい手指の感触に、遅れて鳥肌が立ちあがった。


 そんなことされたら俺……。


「きゃあっ! なんてこと!」


「はい?」


「本当ごめんなさい! 私ってば、その、あなたのこと何も知らないのに本当ごめんなさい! さようなら」


 まるで違う人が乗り移ったかのように彼女は慌てふためき、踵を返した。初めて会ったあの日みたいに、扉に手をかけ廊下へ飛び出そうとする。


 三浦も慌てて「ちょっと待って!」声が飛び出した。


 あさひはびくっと足を止める。


「……あさひさ、もし良かったらなんだけど」


「……はい」


 ゆっくり、こちらを振り向いた。


「聴かせてくれないか?」


 彼女は困ったような表情を浮かべたが、


「……なにがいいですか?」


 困っているわけではなさそうだった。


「いいの? やった! 弾いてくれるならなんでも。あっでも、あさひのプレリュードは聴いてみたいな」


「……分かりました」


 あさひは廊下に向かっていた体をこちらに戻し、ピアノの前まで移動をして腰を下ろす。眼鏡をはずし、それから赤いヘアピンで前髪を留める。キリっと顔を上げた瞬間、三浦の心臓は大きく波打った。


 やっぱり、あの日のあさひだ。あの美少女だ。

 普段からは想像もつかないけれど、やはりあさひはあの美少女なのだ。


 彼女は瞼を閉じ、綺麗な指で鍵盤に触れた。


 真珠色をした音の粒たちが一斉に宙を舞いはじめる。

 優しくて神秘的で、粒たちと一緒に空の上を浮遊しているような、そんな感覚だった。あさひは静かに瞼を上げる。そして美しい瞳で、何か違う世界のものを見ているようだった。


 彼女は鍵盤を弾きつづける。少しでも衝撃を与えたら割れてしまいそうなものを扱うように、丁寧に優しく指を運んでいく。音の大きさは変わらないのに抑揚がついて、繊細なのにダイナミックな音色だ。


 この前聴いた別れの曲とは全く違う。プレリュードを弾く彼女は、まったくの別人だった。唯一変わらないことは、どちらも胸を強く打つ演奏だということだ。


 夢のような時間は一瞬だった。

 彼女と目が合ったとき、三浦は終わりの時間を知った。


「……すごい」


 やっぱり、この女の子はすごい。なんだろう、理屈で説明ができないけど、あさひの演奏にはすごい力がある。


「すごいよ! 本当に最高だよ!」


 三浦は興奮してあさひに歩み寄った。両肩をつかみ、興奮気味に言う。


「あさひのピアノには人を感動させる力がある」


「そ、そんな……」


「本当だ! 俺は嘘つかない」


 あさひは俯き、首を振る。


「そうだ! いいこと思いついた!」


「え、なに?」


「あさひ、ステージで弾かないか?」


 彼女はふっと三浦を見上げ、骨のない声を出した。「ふぇ?」


「文化祭のステージ、まだ空いてるんだ。あさひがピアノ弾いたら絶対素敵な文化祭になるって!」


「いやいや。だめだって私なんか、無理だよ」


「いや、逆にあさひなら大丈夫だって!」


 あさひ、目を瞑って大きく首を振る。


「だって俺、現にこんなに感動してるんだぜ! もったいないってそんな弾けるのに!」


「いやいや私は……」


「とにかく、俺さ実行委員だから早速提案してくるわ! とりあえずなんか決まったらまた言うわ!」


「えっ?」


「じゃな!」「待って!」三浦はすぐに駆けだした。


 ところが倉庫を出るところで手首を強く握られた。


 振り返ると、あさひが手首をつかんで、三浦を見上げている。まだ見たことがない、強い視線だった。そして静かに口を開いた。


「それだけは止めて」


「あさひ……」


「……お願いだから」


 本気で嫌がっているあさひの表情は、三浦の胸をほどほどに締め付けた。罪悪感と拍子抜けした脱力感で、全身から力が抜けていく。


「……ごめん」


「ううん、私のほうが、本当にごめんなさい」


 あさひはそれだけ言い残して、三浦を追い越して倉庫室から飛び出していった。


 抜け殻になった倉庫室、遠くの足音と秒針の音だけが時の経過を感じさせる。三浦は呆然と立ち尽くし、さっき見せたあさひの敵意がこもった瞳を思い出す。それは中々にショックな光景だった。


 それなのに、しばらく経つと今度は、両手に包み込まれた感触を思い出していた。柔らかくて、女の子の感触だった。


『あなたらしい音で、私は好き』


 うん、やっぱりめちゃくちゃな演奏だったと思う。


 でも、それでもやっぱりあさひの言葉は思い返してみれば中々にうれしい言葉だった。どんどん湧きおこる数分間の記憶、忙しく通り過ぎたけれど、なんだかんだ結局トータルでプラスなんじゃないか?


 そんなことを考えて。彼もほどほどに倉庫室を出ることにした。




******




 学活の時間、三浦と川崎はクラスメイトの前に立ち文化祭に向けたスケジュールを発表していた。喋っているのはほとんどが川崎だが。


「演劇でもダンスでも何でも構いません。ただ、条件は全員で作り上げること。だから何か作品を作って当日に発表するのもありだと思います」


 淡々と報告をする川崎に女子は信頼の眼差しを向け、男子は恍惚として眺めていた。三浦の存在を忘れている者が数人ぐらいは居ても不思議ではない。


 だから彼自身そのつもりで、気配を前面にださないよう心掛けていた。


「それと、昼休みのステージ枠がまだ空いてます。ひとグループにつき5分から10分、部活動の発表でも友達同士の出し物でも何でも良いので気軽に相談してください」


 川崎が模範的な経過報告をしている最中、三浦はあさひとの一件を思い出していた。


『それだけは止めて』と『お願いだから』このふたつの言葉が、あさひらしくないというか、その言葉以上に鋭利だった気がした。


 頑なにステージでの演奏を嫌がる理由も、どうしても分からない。あれだけ人を感動させるピアノが弾けるのに、何故……。


「何かあれば私か、三浦くんに言ってください」


 人並な言い方だけど、もったいないと思う。


「ね、三浦くん?」


 もったいない。


「三浦くん!」


「え?」


「……聞いてなかったの?」


 川崎は呆れたように訊いた。

 その瞬間クラスがどっと沸き、爆笑の渦が巻き起こる。


「三浦しっかりしろ―」


「置物かよお前―」


 なかには「いずみちゃんに任せ過ぎだよ」という怒号も混じった。


 彼はとりあえず頭を掻いて、笑いながら川崎に頭を下げた。川崎もクラスメイトと一緒になって、声を上げて三浦を笑っていた。


「もうっ、しっかりしてよ」


「悪い悪い」


 笑った川崎を見てひとまず胸を撫で下ろした三浦だったが、もう頭の中には、再びあさひの姿が浮かんでしまっていた。教室じゅうの笑いが冷めない中、まるで一時停止をしていたかのように、彼はさっきまで考えていた事柄を追いなおしていた。



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