第3話 ある夏の思い出




 昼休み。三浦は2年4組に訪れていた。やはりぱっと見渡した感じ、あの神々しい美少女は見当たらない。


「おう、なんか用か?」


 いわゆる陽キャみたいなやつに声を掛けられた。

 茶髪で無造作に髪が乱れ、いかにもって感じの見た目だ。


「藤沢あさひさんって、いるかな?」


 男は一瞬目を丸くして、それから笑って言う。


「あんなのに用ある奴いるんだ」


 あんなの?


「ほら、あそこだよ」


「あ、ありがとう」


 三浦は会釈をし、男が指をさした場所に向かっていく。

 そこにはつむじをクラスメイトに向け、本を読んでいる女子がいた。彼は生徒手帳通りの名前を呼ぶ。


「藤沢あさひさん」


 彼女は一瞬、びくっとして、それからゆっくりと顔を上げた。


「あ……」


 唖然としたのは三浦のほうだった。


 重たい前髪、流行らない黒縁眼鏡、野暮ったい地味系女子が、こちらを見上げている。正直、誰? って思った。でも考えてみれば、名前を呼んで顔を上げたんだから彼女が藤沢あさひなんだろう。


 ――あんなのに用ある奴いるんだ。


 なんて言い方をするんだって思った。でも確かに、彼女には申し訳ないけど分かる気がした。陽の当たる彼らからしたら住む世界が違う。正直に言ってそう思う。


 彼女は地味すぎる見た目をしていた。


「あの、倉庫で会った藤沢さん?」


「あ……はい」


 面影は全く感じないが、まさか嘘をつくわけがないだろう。三浦は半ば信じられない気持ちを引きずったまま、右ポケットにあった生徒手帳を渡す。


 彼女は、あっと驚いた表情を見せた。


「私の……?」


「これ、落ちてたんだ。だから渡そうと思ってさ」


「……ありがとうございます」


 彼女は頭を下げながら、彼の手から生徒手帳を静かに抜き取った。謙虚というか、やけに臆病な子かもしれない。改めて眼鏡の向こうにある瞳を見ていると、そんな感じがした。


「あのさ、タメ口でいいよ。俺たちタメじゃん?」


「え、でも、それは……」


 三浦は最後まで彼女の言葉を待った。すると「まだ会ったばかりなので……」と聞き落してしまいそうなほど、小さい声が聞こえた。


 何かに怯えた姿はまるで小動物みたいだった。昨日倉庫で見た姿はやはり1ミリも面影がない。

三浦は確認作業のように会話を続けた。


「昨日、あれから家でもユーチューブで探してみたんだ」


「探し、た?」


「おう。基本はショパンだけどリストとかも好きだからさ」


「クラシック……お好き、なんですね」


 間違いない。

 分かってることだけど、彼女は昨日ピアノを弾いていた彼女だ。


「あ、でも俺さ知ってる曲以外はマジで知らないから」


「私も同じですよ」


 彼女は口元を手で押さえながら控えめに笑った。くしゃっと表情が崩れ、三浦の心臓は波を打つ。それから、昨日の可憐な姿を再び思いだした。


 何度も言うが、やっぱりこの子は昨日のピアノ少女だ。


 よく見てみると彼女は、非常に整った容姿をしている。

 大きな瞳、それを飾り付ける奥二重、主張の小さい鼻、うすくて艶のある唇……、重たい前髪と時代遅れの黒縁眼鏡がすべてを台無しにしているだけだ。


「あの、なにか……?」


「あっ、いや別に――」


 その時、頭上に5分前を知らせる予鈴が鳴り響いた。それから少しして、これまで廊下にいた生徒たちがどっと教室に戻ってくる。


「あのさ、何て呼ぼうかな。あさひ、でいい?」


「……え?」


「あさひ、もし良かったらまた話さない?」


 彼女は口を開けたまま静止する。


「え、だめ?」


 三浦の督促でようやく封印が解かれ、返事をする。


「……い、いえいえ全然っ。こちらこそ」


「あー良かったあ。焦ったよマジで! じゃあこれからよろしくね」


「……こちらこそ」 


 最後に笑顔を受け取って、三浦は自分の教室に戻ることにした。

 ごく自然と廊下でスキップをして、気付けば鼻歌を歌っていた。お気に入りの旋律を宙に浮かべ、三浦は思う。


 やっぱり俺も久しぶりに弾いてみたい――。


 気付かないうちに彼女の影響を受けていた。心からピアノを弾きたいと思うことは、三浦自身久しぶりのことだった。

 






 放課後、数年ぶりにピアノの鍵盤を触ってみた。

 ゆっくりと押し込んでいき、音が出るのを今か今かと待つ。だが……


「あれ……?」


 今度はもう少し強めに押し込んでみると、鍵盤の奥でまとまった感触に突き当たった。そこからさらに指を押し込むと、やっとポーンと音が鳴った。


 思っていたよりもずっとずっと重たい。こんなものを弾いていたなんて、今更だけど小学生の頃の自分を褒めてあげたい。


 さて……弾いてみようか。


 左手でまずひとつ目の音を出す。すると右手がごく自然と動いた。三浦は動き出す自分の両手に意識を集中させながらも、内心驚いていた。まさか、覚えているとは思っていなかったからである。


「あっ」


 とはいえ、数年ぶりだ。打鍵のミスを境に流れは止まった。

 元の流れに戻ろうと鍵盤の上を彷徨うが、入り口は見つからない。仕方なくまた最初から弾くことにしたのだが、やはりまた途中で打鍵ミスをした。そしてまた彷徨ってしまう。


 ひたすらに、何度も演奏を繰り返した。


 いや、演奏なんて言えるものではないのかもしれない。やがて何とか途中からでも弾きなおすことができた三浦だったが、それからは記憶を辿ることで精一杯。疑念のこもった指先で美しい旋律は生み出せなかった。


 それでもあの夏の日々、公民館のピアノを思い出した。

 

 ここ数年間止まっていた思い出が動き始めた、そんな気持ちになっていた。




******




 まだ小学3年生だった頃、三浦は月に1度公民館で行われていた子ども会に参加していた。子ども会というのは、お菓子をみんなで食べたりゲームをしたりする、言わば自治会が主催しているお楽しみ会みたいなものだ。


 ある夏の日のこと。いつものように参加していた彼は便意を覚え、別館まで抜け出した。なぜ別館なのかというと、みんなの近くでうんこなんかしたくないという、いかにも子どもらしい理由からだ。


 ところが別館に入ると、美しい音色が聞こえてきた。


 最初はBGMだと思った。しかし奥に足を進めていくと、そこにはアップライトピアノがあって、少女のうしろ姿が見えた。

 窓際に置かれたピアノに向き合う少女、その背中からは子どもとは思えない、落ち着いた雰囲気が漂っていた。


 窓の外は太陽がぎらぎらに輝いていた。蝉がみんみん鳴いていた。

 少女のピアノが奏でる情緒あふれる旋律に感動し、子ども会なんてバカバカしくて戻る気がしなくなった。だから彼女がうしろの存在に気がついて驚くまで、ずっとそこに居続けた。


 初めて、同じ子ども相手をカッコイイと思えた瞬間だった。


 それから彼は、子ども会に参加する度に別館へと抜け出すようになった。少女のピアノを聴き、また少女もそれを歓迎した。そんな日が続けば子どもは何を思うか……三浦は「僕も弾きたい」と、そう願うようになったのだ。


「教えてくれよ」


「いいよ」


 三浦は一生懸命に練習した。

 楽譜が読めない彼に、少女も根気良く教えてくれた。


 がらんとした別館のホールには、流暢な音色と、粗い音色がいつも繰り返されていた。


 そしてそんな日が半年ほど過ぎた日、ようやく彼は少女の弾いていた曲を両手で通せるようになったのだ。蝉はとっくのとうに消えて、もう桜が咲きそうになっていた。


 これは彼が初めて真剣に取り組んだ経験であり、クラシックに興味を持つきっかけになった出来事である。




******




「……ムズイな」


 感傷に浸りながら三浦は呟いた。


 鍵盤が重い。コントロールできない。きっとあさひが1から10の力で操れるとしたら、自分は1か10でしか出力できていない。


 今日はこのへんにして帰ろう……。

 三浦がおもむろに立ち上がった、その時だった。


「……あさひ!」


 扉の前で、あさひはぺこりと頭を下げる。

 マズい――咄嗟に湧きおこった感情は否定的なものだ。


「いつからそこに?」


「途中から、です」


 全身から火が出るような恥ずかしさが一気に襲う。


「いや本当下手くそでごめん! マジ見よう見まねでさ、ほんと聞き苦しくってマジはずいわー。あ、ほらどんどん使ってください、俺もう帰るんで!」


「違います」


 あさひは三浦を真っすぐ見て首を振った。


「いやいや、本当、初心者で本当下手くそなのは事実なんで」


「下手くそだなんて思ってないです」


「いやいや……」


 これまでのあさひとはどこか様子が違った。

 凛とした顔で、堂々としている。


「平均律第1巻、1番のプレリュード。とても優しくて川のせせらぎのような曲」


 それは三浦が弾いていた曲だ。公民館で少女とともに練習した、彼が唯一弾くことのできる曲。


 あさひはゆっくりと三浦のほうに歩み寄っていく。


「確かにミスはあったかもしれない……でも」


「……え?」


「とても真っすぐで個性的な音で、私は好き」


 彼女は彼の手を取り、両手で包み込んだ。

 一瞬、何が起こったのか彼には分からなかった。


「……あさひ?」



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