第2話 藤沢あさひという女の子
一瞬だけ、少女は三浦の目を窺った。
「すごい、本当にすごかった! なんていうか……マジで感動した!」
「えっ……その、私……」
「別れの曲だよね。ショパンの練習曲10の3番。練習曲だけど練習曲じゃない、コンサートでも演奏されるような美しい曲……たしかショパン自身『これ以上美しい旋律は書いたことがない』って言ったんだっけ」
「あ……え、あなたは一体……?」
三浦ははっとする。
「ああ、ごめんごめん。えっと、俺こう見えてクラシックはすげー好きなんですよ。まさかうちの学校の生徒からショパンが聴けるなんて思ってなくって」
「それは、そうなん……ですね」
「いやでも本当、こんなにピアノで感動したの初めてだよ。君、同じ学年だよね?」
「それは……ありがとうございま、す」
少女はちらちらと顔を上げるぐらいで、相当な警戒心を放っている。そんなバリアを三浦はずかずかと突き破っていった。
「もし良かったらほかにも聴かせてよ! クラシックでさ」
「えっ」
「ね?」
少女の瞳が、ゆっくりと虚ろになっていく
「ひぃぃっ……ごっ、ごめんなさいっ!」
ドン――。
三浦は思わずよろけて転びそうになる。なんとか持ち堪えて振り返ったが、少女は既に廊下へと姿を消していた。
「ごめんなさあい」
息の上がった声は、もうずいぶんと遠くから聞こえているような気がした。上履きの音もみるみるうちに遠ざかっていって、やがて聞こえなくなって、三浦は独りになったことに気が付いた。
何気なく振り返ると、蓋が開いたままのピアノがある。その役目がいつ終わるのかを待ち続けているように見えた。
三浦はそっと蓋を下ろす。両手で支えてもかなりの重さを感じる。
それから空っぽになった倉庫で、この数分間に起きたあらゆる出来事を振り返ることにした。怒涛の時間すぎて、整理しなければ何か見落としてしまう気がしたからだ。
「まず、別れの曲が聴こえた」
指を折る。
「そこには見たことのない女子」
指を折る。
「超うまかった。だから伝えた」
指を折る。
「何故か逃げられた」
指を折る。
「……以上」
片手で収まって、逆に拍子抜けをした気分になる。
ふぅ。ため息を吐いて椅子に腰を掛ける。すると三浦は、足元に落ちている何かを見つけた。
拾い上げてみると、それは生徒手帳だった。恐らく、さっきの少女のものだろう。表紙を捲ると、そこにはやはり、見慣れない名前が書いてあった。
「藤沢あさひ……か」
三浦はもう1度、しっかりと少女の姿を思い出してみる。
赤いヘアピン、綺麗な額、大きな瞳、美しい肌――。いつもなら忘れ去られる数十秒間なのに、今日ばかりは脳にしっかりと焼き付いていた。でも、だからでこそ三浦の疑問は深くなっていく。
あんな可愛い生徒が果たして同学年にいただろうか?
それからあの演奏。あんなに心に残る演奏、聴いたことがない。今でも思い出すだけで鳥肌が立つくらいだ。……あの子はいったい何者なんだろう。
「また……会えるかなあ」
三浦は窓から向かいの校舎を見る。そこには無邪気に廊下を走る下級生の姿が見えた。
考えてみれば入学してから1年以上が経っているわけで、あの少女とも同じ屋根の下で過ごしてきたのだ。そう考えると、なんだか不思議な感じがする。
「また……会えるな」
みぞおちがぎゅうっとなった。
ややあって彼は、生徒手帳をポケットに入れて倉庫をあとにした。
「おいってば!」
大きな声に心臓がびっくりした。
「うわっ……なんだよ急に」
「なんだよじゃない。どうしたんだぼうっとして」
「別になんでもねえよ」
適当にはぐらかして頬杖を突きなおす三浦だが、大塚はしつこく顔を寄せる。ちなみにこの大塚は、三浦にとってクラスメイトであり、最も親しい友人でもある。
「なんだ恋の悩みか? あー青春してんなあ」
「何も言ってないだろ」
「分かるぞ俺には。健一が何考えてっか」
健一、というのは三浦の名前である。
大塚は自信満々に腕を組んで、ずばりと根拠のない戯言を言い放った。
「いずみちゃんだろ? わかってんだよ」
「……はあ? ったく相変わらずだな大塚は」
「なんせあのいずみちゃんと委員会で2人きりだもんな、好きにならないほうがおかしいぜ」
「別に違うから」
「いいんだって正直になれよ。というかほぼ全員、1度は好きになるのが運命だぞ」
「だかちげえって――」
「いいか健一!」
大塚は力強く三浦の両肩を叩き、真正面から鋭い視線を向ける。びっくりしたのも束の間で、遅れて不快感が全身を襲った。
もうなんとなく、言いたいことは分かる。
「好きな気持ちを隠すことは何よりもかっこ悪いんだぞ!」
はあ、面倒くせえ。
「好きもなにも……」
三浦、川崎のほうを見る。クラスメイトと談笑している川崎がそこに居る。
実は昨日、彼女には怒られたばかりだった。
謎のピアノ少女との遭遇で三浦は委員のことをすっかり忘れていた。その結果30分以上も川崎を待たせていたのだ。怒るのは無理もない。
ぼうっと彼女の姿を見ていると、不意に目が合った。意外にも彼女は、にこっと軽い微笑みを作ってくれた。
「なんだお前!」
「え」
「ウインクなんかしてやっぱりいずみちゃんじゃねーか! この野郎!」
「違う!ウィンクしたのは俺じゃないだろ」
「うるせーモテるアピールはいらねぇんだよ! この裏切り者!」
怒り狂う大塚から三浦は逃げる。「待てこらぁ!」廊下へ飛び出して走るなか、ふと『2-4』と書かれたプラカードが目に入る。走りながら右ポケットに手を当てると、そこに生徒手帳があった。
なんだか理由は分からないけど三浦の胸は躍った。
「待てー!」
「待つかよばーか!」
昼休みに返しに行こう。
そして藤沢あさひともう1度話してみよう。
三浦は平凡な日常に潤いが湧き起こる期待を、心のどこかで感じていた。
そして、その期待は叶うことになるのだった。
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