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 それから一週間後ある日。研修会場だったとある市からの帰りだった。時計は午後三時半を過ぎた頃だった。なんとも中途半端な時間に終わってしまったものだと、私と逢野さんは嘆き節を互いに披露し合っていると、逢野さんのスマートフォンが鳴った。二言三言話していたが、途中でスピーカーモードに切り替えたらしく、四十万課長の声が車内に響いた。

「香々地冬桜さん──母親の方だ、さっき連絡があった。書類を渡したいので、可能なら家に寄って欲しいそうだ。寄れるか?」

 信号で停止した交差点は、左折すれば香々地邸のある山に入る道だったので、逢野さんと私は二つ返事で了承した。私はウインカーを出し、青信号になると左折して山道へと入った。

 慣れというのは怖いもので、情けない悲鳴を上げながら走ったくねった道もヘアピンカーブも、難なく通過することができた。逢野さんも驚いた声で「悲鳴を上げていた丹波はどこに行ってもうたんや」と言う始末だった。

 書類を受け取って帰るだけだろう。少なくとも私は──恐らく逢野さんも多少は思っていただろう。楽観的に考えていた私は、脇道に入ってすぐに違和感を感じた。

「前に来た時は丁寧に手入れされていたと思うんですが……うわ、キイキイ言ってる。飛び出た小枝で車傷つかないといいんですけど」

「多分、今の音じゃあかんやろ。後で素直に謝るんやな」

「一緒に謝ってくださいよ」

 軽い調子で話すのに努めたが、一本道を進むにつれ、私の抱いていた違和感は不安へと変わりつつあった。明らかに前に来た時と様子が違う。伸びた雑草も飛び出た枝も無かった一本道は、全く逆の状態になっていたからだ。道幅が広く走りやすかったはずなのに、雑草で埋め尽くされて道が消えつつあった。研修資料を読み直していた逢野さんも、流石に顔を上げてナビゲートしてくれた。

 やっとのことで一本道を抜けたが、道の先には、鬱蒼とした森に囲まれた伸び放題の雑草が広がっていた。奥には今にも崩れ落ちそうなほど朽ちた家だった何かが、鬱々した昏い雰囲気を漂わせていた。

 車を停め、おそるおそる車を降りた。綺麗に整地された地面は見る影もなく、私たちは埋め尽くされた雑草の上に立っていた。

 暑い季節でもないのに、汗が噴き出してくる。込み上げてくる不安や恐怖に足がすくむ。

「何もかも、前と違うじゃないですか。一体どうなって……」しどろもどろになりながら逢野さんを見ると、唇に人差し指を当てていた。喋るな、と言いたい野だろう。

 逢野さんは一歩前へ出た。

「香々地様、いらっしゃいますか。役場の住民課の職員で、逢野と申します。住民課へご連絡していただいたと、課長の四十万より聞いております。伺うようにとのことでしたので、参りました」

 前回同様、返事は無かった。逢野さんは少し待ってから私に声を掛けた。

「丹波、早くここから離れるぞ。鍵を貸せ、俺が運転する」

 朽ちた家を睨みつけていた逢野さんは家から視線を外すと、私の手から車の鍵を半ば奪い取るように取ってすぐに運転席に滑り込んだ。

 逢野さんの余裕の無い顔を見て、事態があまりよくない事を悟った。私も車に乗ろうと、一歩を踏み出そうと足を動かそうとした。

 が、全く動かない。

 一気に身体が冷えていく感覚がした。脳内がものすごい勢いで回っているのを、どこか他人事のように考えている自分がいた。悪寒で背中がぶるりと震える。悪い何かが、朽ちた家の方から流れてくるような気がした。

「何突っ立っとるんや、早よ乗れ!」

「逢…野さ、足………うご、か……な……っ」

 背後にある車の中から、逢野さんが大声を出している。大声なんて初めて聞いた。しかし、車の方へ顔を動かすことすらできなくなっていた。私の顔は朽ちた家の方に向けられていて──いや、

 朽ちた家の戸が動くのが見えた。長らく使われていない滑りが悪くガタガタと動きながら崩壊しながら戸が開かれていくのが遠目にも分かる。戸の向こうは漆黒の闇で、二つの赤い丸が光っている。目を逸らしたいのに、赤い丸に囚われて見つめてしまう。目が乾いてきて焦点が合わなくなってきた。意識がじわじわと侵食されていく感覚があった。

 どうしたらいいのか、分からない。奥歯を強く噛み締めた。


 刹那、耳を劈くほどのけたたましい音が車から鳴り響いた。

 逢野さんが車のクラクションを勢いよく鳴らしたのだ。激しい音が混濁し始めていた意識を現実に引き戻してくれ、同時に身体が跳ね上がって肩が勢いよく上がった。

 今なら、動ける。身体が動くことを認識して、私はすぐに車に向き直り、ドアを開いて助手席へと転がり込んだ。

 発進した車の中で、私は逢野さんにお礼を言おうとして──絶句した。

 一本道は最初、丁寧に整備されていた。

 先程通ったときは、雑草が伸び放題で小枝が道に飛び出ているとはいえ、道幅がしっかりある道路だった。

 なのに、今はどうだ。車一台がやっと通れるほどの道幅しかない。それどころか道の両側は崖だった。底は見えない。

 どう考えても人間が行えるではないことは明らかだった。どうなっているのかと逢野さんの方を見ると「最初からこういう道やった、ということか。中々エグいことをするな」と苦笑いを浮かべていた。

「訳が分かりません。どうなっているんです、これじゃ漫画の世界ですよ」

「でも、実際に目の前で起きとる。──前に来たとき、突然背後から女の子が出てきたやろ。あの子は人間やない。上着の裾を引っ張られたお前は驚いて女の子をした。今回の調査に出る時、お前は俺に同行する理由を聞いたけど、俺や課長が『お前が俺と同類』と言うたのは、お前が人間やないものを視認できるからや」

 逢野さんは左手で乱れた長い髪を後ろへかき上げた。

「俺が出張しているのは、人間やないものに話をつけに行っとるためや。行った先の役所にも俺のような奴が大体一人二人はいて、一緒に応対しとる」

 突然言われても反応に困った。私の脳内は情報の処理が追いつかず混乱してばかりで、咄嗟に返す言葉を考えられずにいた。一通り説明した逢野さんは、一瞬バックミラー越しに視線を動かして目を細めた。睨みつけているようにも見える。その動作につられて私もバックミラーを見る。

 ひゅ、と悲鳴にならない声が漏れた。

 バックシートの真ん中で女の子が座っている。髪型や格好こそ前に会った時と同じだが、土気色で全く生気を感じられない。感情の一切を排除した無を顔に貼り付けている。

「なあ、どうしてこんなことをする?遊びのつもりなら洒落にならんぞ。隣の俺の後輩を見てみい、えらい目に遭うて頭が混乱しとる。それとも、この前渡した手紙にお怒りか?住民票を抹消するって書いたからか?氏名と住所だけしかないデータじゃ当たり前や。システム業者のテストデータかただのエラーデータとしか判断されないんや」

 どうやら逢野さんは女の子と会話をしているようだった。しかし、女の子が口を動かしているようには見えないし、私には逢野さんの声しか聞こえない。

「お前が望みは分かった。望みを叶える代わりに、俺に本当のことを教えてくれ。まずは、そのを脱いで本当の姿を見せてくれ。子供やないんやろ」

 女の子の生気の無い顔が、血色を帯びた気がした。目に光が宿る。戸の向こうで光っていた二つの赤い丸が脳裏を過る。一瞬身構えたが、それもすぐに解いた。先程のように囚われてしまうような恐怖は感じなかったから。

 それから、逢野さんは私にメモを取るように言った。

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