3

 山間部の運転に慣れていないと自覚している私は不安でたまらなくて、公用車駐車場まで行く間にも、何度も逢野さんに声を掛けた。

「対向車が来たらすぐ代わってくださいね」

「山に入ったら絶対来ないから安心せえ」

「うねった道とか、運転してても酔うんですよ」

「運転する前に酔い止め飲んどけ。ドラッグストア寄ってええから」

「ハンドル操作狂ったらすみません」

「もしものときは、飛び出して俺だけ逃げる」


 ドラッグストアで酔い止めを買い、服用してから山に入った。

 最初はうねった道とヘアピンカーブが何度も続き、短い悲鳴を上げながら運転していたのだが、途中の脇道から住宅地図に描いてあった一本道に入ると気持ちが落ち着いてきた。地図上では細い線でしかなかったが、意外と道幅が広く取られて走りやすかったのだ。

 アスファルト舗装がされていない私道だが、道は丁寧に手入れがされているのが分かった。伸びた雑草も脇から飛び出た枝も無かった。これを保つのはさぞ大変だろう。

 私の情けない悲鳴をスルーして何かの資料を眺めていた逢野さんが顔を上げた。

「もうすぐやな。迷惑にならんとこに車を停めてくれ」

 逢野さんの言う通り、結局一台の対向車とも出会わぬまま一本道の終わりが見えた。森を切り開いて整地された広い土地に、ぽつんと家が一軒建っていた。

 車を降り、二人して目の前の二階建ての家を見上げた。最近建てられたようにしか見えない、新築の香りが漂ってきそうなモデルルームのような家だった。

 逢野さんの先祖代々町民である同期に聞いたところによれば、この山にはかつてそれなりに集落があったそうだが、時代とともに生活に便利な麓へ移り住んでいって、現在は朽ちた空き家が点在するだけらしかった。ここ二十年ほど、山に住所がある住民はいなかったはずだという。

「随分最近の家やな。空き家をリフォームしたんか?近隣の業者に聞いたら分かるやろか」

「自分でリフォームしたのかもしれませんよ。ほら、最近いるじゃないですか家そのものをDIYする人。芸能人でもやっている人いるし」

「D……なんや?日本語で言え」

 何故数カ国語を操るくせにDIYを知らないのか。発祥はイギリスだぞ。

 逢野さんは役場に入る前、日本全国を、時に世界を旅していたらしい。そして、今も。

 役場に入る前の情報は人伝ての情報だが、どうやら正しいようだ。研修でもないのに、あちこち出張に行っては、その土地の土産を配ってくるし、この間も一週間ほど不在にしていたと思ったら、サイパンに仕事に行っていたと言って、やっぱり土産を渡してきたのだ。私が訝しむ顔をしていると、逢野さんはパスポートを見せてくれた。使い込まれてくったりしており、ページを捲ると様々な国の出入国スタンプが押されていた。

 外国人の来客にも流暢に対応しているのを目撃したこともある。そんな姿を見ていると、田舎の役場で働いているのが不思議に思えた。

 でもそれには事情があるらしく、四十万課長も町長も了承していることだった。出張先でどのようなことをしているのかは教えてくれないが、求められて出張しているのだろうから、きっと重要なことなのだ。

 そんなことを考えながらDIYの日本語訳をなんとか捻り出すと、逢野さんの顔が明るくなった。

「なんや、日曜大工って最初からそう言え」

「何言ってるんですか。逢野さん英語できるんですから、DIYくらい分かるでしょう。Do it yourselfですよ」

「俺は今日本の頭になっとるから、それ以外の言語は知らん。仕事の話に戻るぞ。これからインターホンを押す。読み方が分からんが、『かがち』さんということにする。本人がいれば事情を聞きつつその場で書類を書いてもらう。あと郵便局に行ってもらい居住していることを手続きをするよう依頼する。いなかったら、この手紙をポストに入れて帰る」

 逢野さんは町章と役場のマスコットキャラクターがプリントされた茶封筒をひらひらと揺らめかせた。私は頷いた。


「ごめんください。役場の住民課、逢野と申します。香々地様はご在宅でしょうか」

 逢野さんはインターホンに向かって、名札を掲げつつ関西弁が抑えた挨拶をしたが返事はない。もう一度同じことをしたが、やはり家屋からは物音の一つさえ聞こえてこなかった。

「家に人がいる気配がありませんね。出掛けているんでしょうか」

「出掛けているんやったら、俺たちが来た公用車のタイヤ跡しかないのはおかしいな。こんなに広くて、車を置けるスペースが確保されているのに、やけに地面が綺麗な平やないと思わんか?例えば車やったら、動かしたり切り返した跡があってもええと思うんや。でもその轍がない」

「車、持ってないんじゃないですか?日常の移動手段は徒歩か自転車とか」

「丹波は、ここまで来た道を毎日徒歩か自転車で移動したいと思うか?」

「いいえ」

「たとえ自給自足の生活を送るにしても、こんな山奥で住むんやったら、車なりバイクなり移動手段が無いとしんどいやろ」

 私は思いついたことを口に出してみることにした。

「まだ引っ越していないのでは? 家は綺麗なのに人や車がないのも説明つきませんか。転入届のタイミングと引っ越しのタイミングと合わないとか」

「あの不完全住民票の謎が解けないやろ。大体、どこから転入したのか情報がなかったやないか」

 完全に失念していた。私の思いつきは即座に崩壊した。

 逢野さんは難しい顔つきで家を見つめていた。何か思うところがあるように見えたが、一方私は早くこの場から立ち去りたい気分に駆られていた。家主が不在にしている以上、最早ここにいる理由もないし、何だか気味悪い雰囲気を感じ始めていたからだ。

 手紙を投函して戻りませんか。そう逢野さんに進言しようとしたときだった。


「おにいさんたち、だれ?」


 突然背後から声をかけられ、私と逢野さんは勢いよく後ろを振り向いた。しかし、視線の先には誰もいない。気のせいだったかと気を抜いた瞬間、上着の裾が引っ張られ、変な声をあげてしまった。

 裾を引っ張った張本人は、目線をずっと下げたところにいた。

「おにいさんたち、だれ?」

 身長120cm位の小学校低学年に見える女の子だった。今時の前下がりボブカットに、黒い長袖のAラインワンピース。白いハイソックスにエナメルの黒い靴が映える。

 綺麗な家の中から家族と共に出てくれば何とも思わなかっただろうが、この子供の背には我々が車で通ってきた一本道と雑木林だ。あまりに場違いすぎる。

 それに──黒すぎる大きな瞳に吸い込まれそうな気がして、思わず目を逸らした。

 横を見ると、逢野さんが子供の目線に合わせてしゃがむところだった。穏やかな声が尋ねた。

「おにいさんたちは町役場で働いているんだ。君は、ここの家に住んでいるの?」

「うん」

香々地かがちさん?読み方は合うてるかな?」

「うん」

 子供はにっこりと笑った。逢野さんも同様に笑みを浮かべ、地面に落ちていた小枝で地面に漢字を書いた。

「漢字は分かるかな?上は冬、下は桜という漢字なんやけど」

「それはママの名前。とうおう、って読むの」

「ありがとう。君の名前も教えてくれるかな」

「とうおう──ママと同じ」

「そうか」逢野さんは特に驚く素振りを見せず、頷くだけだった。

「お父さんはいない?」

「お父さん、前からいない」

「そうなんだね。じゃあ、お母さんは?お話がしたいんやけど」

「お仕事に行ってる」

「君は──とうおうさんはお留守番?」

 子供は、小さく頷いた。逢野さんは目を細めてえらいね、と彼女を労った。

 父親がいない。母親と子供が同じ名前。この住所に住むのは一人。何かしら複雑な事情がある子供なのだろうが、事情を子供に聞くことなどできるはずがなかった。

 私は逢野さん、と声をかけた。

「子ども課に連絡しますか?向こう、この子の情報知らないかもしれません」

「そうやな。今、電話してくれるか?」

「分かりました」上着のポケットからスマートフォンを取り出したが、画面右上に出ていた表示は圏外だった。

「あれ、圏外だ。山の中だからですかね。役場戻ってから伝えておきます」

 外部と連絡ができないので、子供一人を置いていくのは忍びなかったが、家で留守番をしていると本人が話している以上、どうしようもなかった。逢野さんは「お母さんに渡してください」と子供に伝え、手紙が入った茶封筒を渡した。

「ちゃんとお留守番してえらいな。またな、とうおうさん」

「うん、またね。髪の長いおにいさんと髪の短いおにいさん」

 帰りの車中、逢野さんはずっと窓の外を見つめて考え事をしていた。

 役場に戻り揃って課長に報告した後、私だけ解放された。課長と逢野さんは終業時間を過ぎても部屋に篭りっぱなしで、二人が出てきた頃には夜七時を過ぎていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る