第45話 もう一度きかせて

 昼前に帰ることにしたさやかを見送り、時間を持て余した利一は無性に花を見たくなって庭へと足を運ぶ。そこにいたのは麦わら帽子とエプロンをつけた志津子だった。風が吹き草花と彼女が首に巻き付けたてぬぐいの端から垂れた糸たちが揺れている。


「あら、さやかちゃんは?」

「帰りました。あなたにもよろしくと」

「そう…寂しいわね」


 利一はガーデンチェアに腰を掛ける。日陰にあったのに熱を持っていた。志津子はスコップを手にし慣れた手つきで植え替えをしていた。左手首を返しおでこの汗を拭っていた。


「さやかちゃん、本当にいい子ねえ。あなたの若いころに似ているわ。真面目で優しくて」

「俺なんかより、ずっと良い子だよ」

「そう?」

「そうだよ」


 志津子はふふふと声に出して笑った。デイサービスで畑仕事をしているなんて聞いたときは、どうしても信じられなかったが、慣れた様子で土いじりをしている姿をみて納得した。時折息をついては植え替える花に「いい子ね」なんて話しかけている。


「そういえばさやかから、君がバイオリンを持っているってきいたよ。今でも弾いてるのか」

「ええ。今でも弾いてるわ」

「そうか。良かったよ」


 志津子は手を止めて目を大きく見開き利一を見る。利一は千世の心情を知らずに話を続けた。


「やめてしまったんじゃないかって気がかりだったから。駆け落ちした頃はそんなことにも気が回らなかった自分が恥ずかしいよ。思い出したのもずっと後だったけれど、バイオリンは君の象徴みたいなものだ。ずっと続けていたらと願ってたよ」


 利一はすまなかったと言った。志津子は首を横に振った。また手を動かし視線を植え替えた花へと戻る。


「今の夫と結婚する時に、バイオリンはお嫁に持って行こうって決めていたわ。夫はあなたほど興味を示さなかったけれどね。それでも良かった。今度持って行く理由は、弾くことだけじゃなくて、お金に困った時に手放せる決心がついたからよ。それが結婚する決意の証だったの」


 間を置いて息を吸った。うまく吸えずにひゅっと喉がなる。呼吸を落ち着かせようとひとつ大きく深呼吸をしてから口を開いた。


「運命ってあるのかしらね。実際に夫の会社が傾いて借金を抱えることになったのよ。私はすぐにバイオリンのことが頭に浮かんだわ。大した金額になるわけでもなかったけれど、それが自分とあなたに対する贖罪だった。これさえ売れば自分が許される気になったのね。でも夫はそれは君の大切な宝物だからって言って拒んだの。それから彼は怒った。宝物を売ることは愛情じゃない、僕は手放さないものがみっつあるんだ。それは君と、子供、それと君たちが大事にしているものだって。なんだか憑き物が落ちた気分だったわ。夫と結婚したのは、勿論夫に好意があったけれど、いつだって自分のためにしか生きていなかったと気付かされた。いつまでたっても小野寺の娘というプライドを捨てきれなかった自分が恥ずかしくもなった。あれ程嫌っていたのに、頭には常にそのことが離れていなかったのよ」


 それから志津子は変ったのだという。一皮むけた彼女はこれまで以上に積極的に外に出た。パートではなくフルタイムで働き、園芸や家庭菜園を初め、小野寺の娘ではなく、夫の妻として生きようと変わった。夫もまた新たな職を見つけた。決して裕福ではなかったが、家族が慎ましく暮らすには充分な稼ぎを得られるようになった。意外と性に合っていたと志津子は歯を見せて笑った。


 あの日から、悩み苦しみ辛さから逃げ出したい日もあった。それでも歯を食いしばって生きて来た何十年の日々の積み重ねは決して後悔ばかりの人生ではなかった。

 利一は「良かった」と呟き、志津子は「ええ」と応えた。


「また君のバイオリンが聴きたいよ」

「喜んで」


 志津子はその日の夕方、皆を集めて小さなコンサートを開いた。バイオリンにひたむきに楽しそうに弾いていたあの頃と同じだった。

 それが最後の音色になった。

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