第43話 雪解け

「ずっと自分が人殺しだと思っているんです」


 ダイニングに移りちゃぶ台の前で二人は手を握り寄り添って壁にもたれていた。利一はぽつりぽつりと小雨のように言葉を綴っていく。

 母と死に別れた後、子供だった自分を育ててくれた鏡さんのこと、志津子との出会い、大人になりきれないままの駆け落ち、流産、そして彼女との別れ。彼女は小さく相槌を打ちながら利一の話に耳を傾ける。


「俺は子供のことを悔いるように努めました。そうすれば何も考えなくて済むから。志津子のことも、志津子の傍にい続ける勇気が持てなかった自分にも」


梶山があの家に来て二度と会うなと告げられた時、ほっとした自分がいた。一番初めに頭に浮かんだのは解放だった。子供の死を受け入れられないことよりも、志津子の傍で支え続けていくことが苦痛になっていた。苦しげな志津子を見ると自分の力のなさをまざまざと見せつけられているようだった。誰も自分を責めなかった。それは子供のことがあったからだろう。仕方がないと言われる度に身体にまきつく鎖は増えていく気がした。

 安易な方を選んでしまったことは一瞬の安堵をもたらしても、生涯の苦しみから逃れられないことだった。誰にも責められず、生涯過去の清算が出来ないことが罰なのだと受け入れるしかなかった。


「人と関わるのを恐れた俺は、とにかく仕事以外は切り捨てるつもりで生活していたんです。青臭いと思いますが一人で生きてくつもりだったんです。でも俺は弱かった」


 いつの間にか人恋しさは芽生えて、彼女を目で追うようになっていた。傍に居れば居る程想いは募って、目が放せなくなり、しまい込んだはずの恋心が蘇る。急いで自分に枷をつけても簡単に解かれた。もしかしたらもう一度人並みに愛せるかもしれないと思ったけれど、また同じような結果になったらどうしようかと思うと恐ろしくなる。自由になりたい、でも怖い。天秤のように心は揺れ動いていた。考えれば考える程どうしようもなくなっていき、ついに倒れてしまったのである。


「雪解けじゃないですか」


 野崎は少し間をあけてから言葉を続けた。


「季節が冬から春になるように、どんなに心を凍らせてもいつかは溶けちゃうんですよ。時間が解決することってあるじゃないですか。内田さんは悩んで苦しんで自分を責め続けていたんでしょう。それを自分で許せたってことじゃないかなって思うんです。もしかしたら内田さんは自分に厳しいから、それすらも許せないかもしれないけれど、私は良かったと思います」


 良かった。なんと簡単な言葉だろう。それなのにこれほど心に沁みる言葉もなかった。どんな慰めよりも彼女の声で発せられた言葉はまるで神の啓示にすら思える。


「ひとつ前進ですね」


 握られた手に力がこもる。もう大丈夫、まだ進める、そう聞こえた。利一は彼女にもたれかかる。彼女もまた利一に首を傾けた。


 夕方になっても離れることを惜しむようにずっと寄り添っていた。利一はベランダから見える夕焼けに早く沈めと願う。帰る理由を奪ってしまいたかった。本当は子供のように縋りたかった。帰らないで。傍に居て。素直な言葉をするのは難しい。

同じ気持ちでいたのかはわからないが和江も帰ろうとはしなかった。時間を気にするどころか、時計からめを背けようとしているように見えた。

 日が暮れる前に食事の準備を初めた。食器は利一の茶碗と汁物のお椀、お皿が一枚だけだ。野崎は雑炊の残りを温め直し、買いだめた野菜とお肉でさらっと野菜炒めを作っていた。

 野崎が冷蔵庫を開けた時に利一は思わず感嘆した。


「うちの冷蔵庫に食材が入ってる」


 一年前の夏のボーナスで買った冷蔵庫だ。ビールの宣伝を新聞で見て無性に飲みたくなった。家に帰って冷えたビールを飲む、その光景が頭から離れなくなり購入に至ったのである。こちらに来て初めて自分の欲を満たすためだけに買った代物だった。とはいえ料理は全くやる気が起きず、ビールを冷やすためだけの箱以上にはなれなかった。


「これが、冷蔵庫の使い方ですよ」


 ふふふと声を出して笑っいた。ごはんが出来上がりちゃぶ台に並べる。利一は手を合わせてから箸をつけた。


「味付け、薄くないですか」

「凄く美味しいです」


 先日二人で食べた定食も間違いなく美味しかったが、野崎のごはんは利一には丁度いい味付けだった。ある意味面白みはなく、素朴でなんの変哲もない食事だった。

咀嚼し、時折「美味しい」と呟くだけの時間が過ぎる。


 食事を終え彼女は食器を片付ける。洗い物くらいはすると申し出ると「病み上がりですよ」と諭され畳の部屋へ押し込められた。ふすまは開けっ放しにしていると彼女が奏でる生活音だけが聞こえてくる。それほどしないうちに蛇口を閉め水音がしなくなる。そろそろ覗きにくるかと待っていても彼女は現れない。そのふすまからひょっこり顔を覗かせに来ない。利一は急に不安がこみ上げて畳の部屋から台所を覗くと、さっき洗った食器や鍋を手拭いで丁寧に拭き始めていた。


 どうしてそういう行動に出たのかわからない。自分の体と理性が一致せずコントロールが効かないことに恐れすらなかった。ただそこにいる存在が胸を締め付ける程に愛おしくて堪らず感情の赴くままに腕を引っ張り抱き寄せた。すっぽり収まる腕の中で彼女は身体を震わせる。彼女は腕を払いのけることなく持っていたてぬぐいから手を離し、利一の背中へと腕を回す。どちらからともなく顔を横に捻り一番近い吐息を交わし彼女の「あ」と漏れる声を合図に唇を重ねる。ガラス細工に触れるようなキスを終えると、二度目は息をするのも絶え絶えになるまで交わし続けた。


 この時まだ夢の中にいた志津子の姿が脳裏に張り付いたままだった。変らず唇は綺麗な弧を描いて佇んでいる。夢の中の志津子はなんと言おうとしていたんだろうか。今の利一を見てなんと思うのだろうか。少なくとも記憶の志津子はずっと微笑み続けていた。


 許してくれるのか?いや、志津子は俺を罰していたわけじゃないだろう。彼女を手放したのは俺で、そんな不甲斐ない俺を許さなかったのは俺自身だ。

 年月の間に自分に科した罰はいつのまにか柔らかくなり形を変えてしまったのかもしれない。昔よりも罪悪感はそれほど感じてはいない。後ろめたい気持ちが消え失せたわけではない。もし本当に志津子が許してくれなくても今腕の中にいる彼女を手放すことはないだろう。

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