☆第42話 張り詰めた糸が切れる
異様に身体が重い。それなのに身体が此処にあるのかわからない。どこに立っているのか、そもそも地面があるのかわからない。手まさぐっても触れるものもない。何も見えない。体は本当に存在しているのだろうか。
次第に暗闇は形を持っていく。誰かが台所に立っている。トントンと軽快な音をたてている。振り返り「もうすぐよ」と語りかける。顔にもやがかかってい誰か判別できない。それでもそれが誰で何時の記憶か知っている。名前を呼びかけようとするが声が出ない。気付けば自分と彼女の間に溝が出来て、彼女はあの家にいるのに、利一の足元は音をたてずに崩れていく。落ちることもなく元の暗闇へと戻されている。
「何がもうすぐなんだ?」
頭の中で叫ぶと彼女は口をぱくぱくさせていた。
「聞こえないよ」
何度問いかけても変わらず口をぱくぱくさせる。耳を注意深く傾けても聞こえない。利一はもどかしさと、大きくなる溝の恐怖から感情が大きく高ぶって叫ぶばかりだった。
意識は闇に溶けると同時に覚醒した。見慣れた天井と、見慣れた二人の姿。見慣れた人は酷く不安げに覗き込み、もう一人は目を腫らしていた。
「気付いたか」
利一の眼は大きく見開き、血の気がすーっと引いていく。自分に何が起こったのか把握できないまま、ただ今日が野崎と出かける日だったことだけが、頭の中を占領した。
「何時ですか?」
即座に思い浮かんだ疑問を投げかけると社長は「最初の一言がそれか」と布団を叩いた。重い体を起こそうとするが頭を枕から離すのに苦労する。
お水を持ってきますと野崎は目を伏せたまま立ち上がり、ふすまをそっと閉めてから台所の方へ行く。社長に体温計を渡されたので脇に挟んだ。
「どうして二人が此処に?」
「大変だったんだぞ。昼前、急に野崎から電話があって、声を震わせておまえの行方を訊いてくるんだ。なんのことかと思えば待ち合わせになっても一向に来なくて、おまえに何かあったのかと思ったそうだ。とにかく家にいるか確認するためにタクシー走らせて来たら、ドアを叩いてもインターホン鳴らしても出て来やしないし、大家に頼み込んで開けてもらったわけよ。そしたらおまえ、布団に倒れ込んでるのを発見したんだ。まじで死んでるのかと肝が冷えたぜ。ま、この通りだけどな」
利一の肩を力強く叩き握った。痛かった。嬉しい痛みだった。
「寝てる人間の着替えって大変なのな。野崎に手伝って貰うわけにもいかないから一人でやったんだぞ」
「それは、すみません」
「あとは医者を呼んで、解熱剤打ってもらったよ・熱が下がらないなら連絡しろって言われた」
そこまで言うと体温計を見せろと手を差し出した。脇から抜くと三十七度まで下がっている。
「一時的なものか。ま、このまま様子見ってところか」
社長は大きくため息をついた。
「良かったよ。無事で」
鼻をずっと音を鳴らし啜って鼻の下を掻いた。入りますと小さな声がして、そっとふすまが開いた。
「お腹空いてませんか?簡単なお雑炊ですけれど、ちょっとでも口にした方がいいかなと思って」
「ええ、いただきます」
空腹は特に感じなかった。それでも食べられないほどではない。せっかくの好意をふいにするのは憚られた。野崎は湯呑を先に渡してから台所に戻り、お茶碗とれんげを持って来た。利一は先に湯呑に入った水を飲みほした。
「じゃあ、俺は先に行くわ。明日も休め。野崎も看病が終わったら出社しろ。内田が出社する日に一緒にな」
野崎は顔を真っ赤にして俯いた。
「社長、色々すみませんでした」
「ん。お大事にな」
手をぶらぶらさせて後にする。ドアが閉まると蓋が緩んでいる郵便受けがドアとぶつかり大きな音をたてて揺れた。つがいが軋みきいきいと二三度音をたてる。
「…してすみません」
暫し続いた静寂に小さな声が過る。聴き逃した利一は「え?」と野崎の方へ振り向くと布団に視線を落としたままもう一度繰り返した。
「食器の場所がわからなくて、あちこち探ってしまいました」
済まなそうにする理由がよくわからなくて利一は不思議に思った。寧ろ謝るべきは自分で彼女ではない。
「俺の方こそすみません。心配させてしまって。それに迷惑も沢山かけてしまって」
彼女が零した「いえ」という二文字でまた沈黙が続いた。利一は手渡された茶碗に盛られた雑炊に視線を落とす。卵と小さく切られた葉物野菜、どれも家にないものだ。此処に越してから自炊を数えるくらいしかしていなかった。最初の頃は自炊をする気力がわかず、そんな日が積み重なると料理自体が煩わしくなり作るのをやめてしまった。どうしても外食出来ない日にだけごはんを焚くだけだった。
つまりわざわざ買ってきて料理してくれたのか。
「どうしたんですか?」
意図せず、涙があふれだしていた。
「すみません。なんか感極まっちゃって」
「どうしてですか」
「わかりません。おかしいな」
彼女は嗚咽にむせび身体を丸くする利一の手を握り背中を擦った。利一はおぼろげになっていた母を思い出していた。優しい手に縋って泣き続けた。
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