第41話 変化の兆し
年が明けてから利一と野崎の関係は少しずつ変わっていった。必要最低限の会話しか交わさなかったのが、仕事の合間や昼時、帰宅時と話す機会が増えていた。天気の話とか、新聞に載ってる地元のニュースとか、他人に話すほどではないような休日の話とか、大抵は野崎が話題を振って利一が頷いていた。それが利一には心地よくなっているのが自覚していた。
「良かったら」妙に声が上擦ってしまい利一は咳払いをする。
「良かったら、今度の休日出かけませんか」
利一は誘ってから少し後悔した。春の気配を感じる頃だったせいかもしれない
マフラーを手放して厚手のコートが鬱陶しくなるような気温だった。穏かな温度が気持ちも緩ませていた。欲深くなっている自分が表に出ることで、同時に志津子と抱き上げることも出来なかった赤子の顔が覗いてくる。誰に強制されたでもない自分で戒めた過去だ。自分で幸せを享受するなとつけた枷が酷く重い。次の休みは予定があったとか適当に嘘をついてやり過ごそうとしたが遅かった。
野崎はどこにとも、何をしにとも訊かないままはにかんで了承した。その顔を見ると否定することが出来なかった。しかし後悔に勝った嬉しさがこみ上げた。きっと彼女の表情が鏡のように自分にも映し出されているなんて思っても居なかった。
日取りも順調に決まり、桃の花を見に行くことになった。日付が近づくにつれ利一の心は穏やかさを失いつつあった。志津子と別れてから八年、九年目に差し掛かっていた。その間プライベートな付き合いは殆どせずに過ごしていた。一人でいることに慣れていた。慣れ過ぎてしまっていたのかもしれない。誰かと約束をして出かけるなんて簡単なことが非常に難解なパズルのように思えて、不安が大きくなっていく。不確かな不安だ。大層なことをするわけじゃない。朝待ち合わせ場所に約束の時刻より早めに行き、目的地へと足を運んで、桃の花を観賞し、おなかが空いたねとか言って、どこかで食事をして帰る。男女の関係にならなければなんてことないだろうと、他人から見れば空しい考えが利一にとっては平静を保つことだった。
そう、男女の関係にならなければいい。友人として出かけるんだと言い聞かせ続けていた。
「体調でも悪いのか」
約束の数日前から誰彼と問わず心配されていた。自覚はなく普通に仕事をしていたつもりだった。実際熱を測っても問題なかった。同僚が言うには顔色が悪いそうだ。そしてついに休みの前日になって社長からも同じ質問をされた。五時半を過ぎても誰も席を立とうとしない。忙しい日で残業を余儀なくされていた。そんな中社長は利一の席に寄って訊ねた。
「そんなことありませんが」
「そうかあ?今週、難しい顔をしている日が多かったから具合悪いんじゃねえかって思ってたんだが。それともトラブルでも抱えているのか?」
「トラブルもないですよ。すみません、なんか心配おかけしてしまって」
「それは別にいいんだけどよ。まあいいや。今日は早めに帰りな。美味いもん食って早く寝ちまえ」
社長は利一の肩を叩いて席に戻った。元気だって言ってるのになと利一は音のない息をついた。
「大丈夫ですか?」
体調を心配していたのは漏れず野崎もだった。わざわざ会社の救急箱を持ってきて体温計を差し出したのも彼女だった。言われた通り計り見せると確かに平熱だったが、それでも彼女は曇り顔のままだった。
「全然。問題ないですって」
「あの」
明日の事を訊ねようとしたのだろう。しかし同僚がいる手前口にするのは憚られ、目をきょろきょろさせている。小声で伝えようにも、早く帰ろうと必死に仕事に向かっている彼らからは無駄口ひとつ聞こえてこないので、どのように話そうかと悩んでいる様子だった。
「せっかくだし、ご厚意に甘えて念のために先に上がらせていただきます」
利一の仕事も片付いたとは言えなかったが、急ぎの用件もなかったので週明けに回そうと鞄をとった。誰も利一を責めることなく「おつかれ」と声をかけてくれる。去り際、野崎には目を合わせて会釈だけした。
外に出ると徐々に日が長くなっているおかげで、まだ仄かに明るい。本格的な春はあともう一歩といった感じに運ばれる風が顔に当たると小さく体が震えた。前をあけたジャケットを手で合わせて人の波に乗って駅へと向かう。
週末の六時前、浮かれた空気が漂っていた。これから家に帰る者、飲みに出かける者、はしゃいでいる若者、体を寄せ合うカップル、目や耳がいつもより尖り神経を刺してくる。自分の体が薄い膜だけで覆われているような危うさを感じた。目が回った。人の声が耳をつんざいた。
それからいつ家に辿り着いて、どうなったか覚えていない。
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