第40話 しじみの味噌汁
次の日の仕事は頭痛との闘いだった。それは社長も同じで薬局で買ったと思われる薬を飲み頭を抱えている。
起床して鏡を見ると顔はむくんでおり、これではだめだとしきりに顔を洗ったり、蛇口をひねって朝食代わりに水を飲んだが、無駄な努力だった。何かお腹に入れなければと思いつつも昨夜のおでんが胃に溜まっているせいか食べる気が起きない。結局何も食べないまま出社した。
「大丈夫ですか?」
野崎は煎茶を入れた湯呑と水が入ったグラス、お歳暮に貰った茶菓子を机の上に置いた。
「ああ、ありがとうございます」
「いえ、あとこれは社長からです。お大事にしてください」
そう言って粉薬を手渡してから、他の社員の元にもお茶と茶菓子を配りに行った。利一は社長の方へ振り向くと、飲めと目で合図されお辞儀をしてから水で流し込んだ。
一口大の小さな羊羹は、砂糖の甘さが神経を震わせる。痛みがなくなることはなかったが靄がかかった頭が少し晴れた気がする。
お昼時、頭痛はなかなか治まらなかったが気持ち悪さは緩和された。それぞれ昼食にお弁当を用意したり、食事に出かけたりしている。たまに社長が出前をとってご馳走してくれることもある。利一は普段一人か、男性職員に誘われて外で昼食をとることが多かった。今日はうどんくらいなら食べられるかと財布を取り出した時向かいに座っている野崎が声をかけて来た。
「内田さん、良かったらごはん行きませんか?」
話しかけられることも少ないだけに昼食の誘いなんて受けたことがなく戸惑った。
「美味しい食堂を知っているんです。ご迷惑じゃなければ、ですが」
語尾に近づくにつれ徐々に声が小さくなる。
「はい。よろしくお願いします」
正しい返答が思いつかず了承の言葉を口にしてから首を捻る。野崎は嬉しそうに「こちらこそ」なんて答えていた。
妙なやり取りに、残っていた社長と山田がにやにやしていることに二人は気付いていない。
野崎が案内した場所はオフィス街の一角にある食堂だった。すでに五人ほど並んでいたがすぐに順番が回ってくると野崎は言う。待っている間おすすめのメニューなど教えてもらったことと、中から漂うご飯の匂いが空腹感を増していた。十五分もしないうちに店内に入ることが出来た。壁にかけられたメニュー表をざっと見て、野崎のおすすめの一つである生姜焼き定食を注文する。野崎は玉子焼き定食を頼んでいた。
「かつも美味しそうだなあ」
先に入った客の元へ運ばれるとんかつを見てつい言葉が出た。
「揚げ物も美味しいですよ。とんかつとか唐揚げとか。特に卵とじのカツ丼は絶品です」
「そうなんですか。今度試してみます」
野崎に向けられた好意を昨日指摘されたばかりだったが、思ったより普通に話せている自分に安堵する。
運ばれてきた食事が二つ並んでから、どちらからでもなく手を合わせて「いただきます」と声が重なった。そして二人揃ってしじみの赤だしに口をつけて一息つく。酒で疲れた胃に沁みわたった。
「うまい」
「美味しい」
また同じタイミングで声が漏れて目があった。全てが同じタイミングでなんだか可笑しくて二人して小さく笑う。野崎は口元を押さえて眉をㇵの字にしていた。
「今日で良かったです」
「何かあるんですか?」
「此処の汁物、曜日によって内容が変わるんですよ。火曜日はしじみのお味噌汁の日なんです。昨日社長さんと飲みに行かれてたんでしょう?」
「ええ、まあ」
「沢山飲まれてるんじゃないかなって思ってたんですが、案の定だったようで。お昼は絶対此処に連れて来なくちゃって昨夜から決めてたんです」
野崎は大きな卵焼きに箸をいれて切るとぷるんと震えた。利一も続いて自分の生姜焼きを頬張る。少し濃い目の味付けが二日酔いの胃が喜んでいる。
「飲んだ次の日の仕事はきついから、此処に来るって決めてるんですよ。しじみがない日でも大抵お味噌汁なので。飲んだ後のお味噌って美味しいじゃないですか」
「野崎さんも飲むんですか?」
次の日の味噌汁を語るほど飲む姿が想像できない。普段の飲みでは、最初の一杯は飲んでも二杯目からは大抵お茶かジュースだ。
「父が酒豪なんですよ。付き合いで飲んでるうちに好きになっちゃって」
「意外です。それなら普段は物足りないんじゃないですか」
「正直なところ、そうですね」
肯定してから恥ずかし気に目を伏せた。
後から野崎に聞く話だが、この時なんで素直に話したんだろうと野崎は内心不思議だった。これまでは女子が酒好きなんて恥ずかしいと自戒していた。父からは、家では飲んでも良いけれど外では極力飲むなと叱責されていた。ただでさえ行き遅れているのに酒が好きな女は貰い手がないと心配していたそうだ。
「その代わり家では飲んじゃってます」
照れ隠しの笑顔が素朴ながら大人の女性の中に少女のような無邪気さが含んでいた。職場でみせる嫌味のない外面を気にするような笑顔ではなかった。なんの障りもないプライベートで見せる笑顔のように思え、利一は胸の奥にしまい込んだ心の拠り所を得た時の心地よさを覚えた。
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