第39話 些細すぎるきっかけ

 飲み会の次の日から、タクシーを相乗りしただけの取るに足らない出来事が利一の脳裏には鮮明に残っていた。小さくなっていく野崎の立ち姿が不思議と凛としていたようにも少し物悲しそうにも見えた気がする。実際彼女には利一に対してなんの感情もないだろう。ただ見送った、それだけだったはずだ。現に変わらず、利一の姿を見ても、いつもと同じ態度で誰とも差をつけずに、仕事上の間柄といった礼節な距離感を保っている。

 利一だけがしきりに野崎を目で追っていた。それに利一自身が気付いていなかった。気付いたのは、仕事納めも近い日の夕方、社長が利一を呼びつけて二人で飲みに行こうと誘われたときだった。


「仕事に身が入ってないって山田が愚痴るんだよ」


 屋台のおでん屋のカウンターに体を預けるように前のめりになりながら、おちょこを舐めるようにちびりと口をつけてから話始める。いつもならぐいっと煽って、こちらが酌をしてもまたすぐに空け、次の酌をする時には自分も酒か食べ物に口をつけていので間に合わないから手酌を始める。そういった流れがない日は、決まって説教か相談事に乗る時だった。今日は前者かと利一は肩をすくめる。


「きっちりそつなくこなすお前が三日連続でつまらんミスが続いているってさ。らしくねえじゃねえか」


 つまらないと言っているが、実際は全てがそうではない。取引先に連絡する旨を忘れていたり、布の発注を忘れていたり、先方に平謝りする羽目になるミスをやらかしている。なんとか事なきを得たが、同じミスでも平時でするミスと年末にするミスとでは重さが違うと、昼間に山田が無遠慮に放った言葉が堪えていた。


「終わったことは仕方ねえ。損害もなかったことだしいいだろう」


 利一はほっと胸を撫でおろし「すみませんでした」と頭を下げてから注いであった自分のおちょこを口にする。


「一応尋ねるが、らしくないミスの原因はなんだ」

「どういう意味でしょうか」

「気を取られている原因だよ」


 ミスの原因ってなんだ。しようと思ってするものでもないだろうと首を捻る。


「全く、初心な振りか?それとも本当に初心なのか?おまえのそれはなんの役目も果たしてないのか」


 社長は待ってたと言わんばかりにあっという間に手酌で三杯四杯とあおっていた。もう酔いが回っているのか、机越しに利一の下半身に目をやった。利一はこれまでも男同士の馬鹿馬鹿しい下ネタを耳にする機会も会話に参加する機会もそれなりにあったが、今日に限っては小さな不快感を覚えて思わず社長を睨みつけた。


「茶化して悪かったよ。でも感謝してもらってもいいんだぞ。一緒に来て本音を聞き出してやるって鼻を鳴らしていた山田を着いてこないようにはぐらかしたんだぞ」


 何時の時代も他人の恋愛事情に踏み込む人ってのはいるもんだなと嘆息する。ただ、隙をみせた自分にも否があると自省した。


「俺はつきあうとか、ましてや結婚なんて考えませんよ」


 社長は分厚い大根を箸でなんなく切ると細い湯気が立ち上る。四分の一の大きさに切り分けて口に放り込んだ。あっつあっつと口を動かし温度調節をしながら咀嚼し少し冷めた酒と共に流し込む。


「そう言うと思ったよ。まあ、無理なら仕方ないけれどな。ただ勿体ねえなあ。おまえみたいな見目も良い、まだ若いのに仕事も出来る、性格も悪くねえ色男が独り身を貫こうだなんて。何もしなくても引く手あまただろうに」


 勿体ねえ勿体ねえと残りの大根を次々と酒と共に喉を通していく。


「社長も人が悪いですよ。俺の事情を知っておきながら、彼女を薦めて来るなんて。彼女に悪いと思わないんですか」


 俺みたいな訳アリをと自嘲して付け足す。口元に笑みを浮かべていた赤ら顔の社長は豹変し両手の箸とおちょこを机に置いて、指で何度も机を打ち付ける。


「それよそれ、そういうのはどうかと思うぜ?」


 社長は真面目な顔をして話し始めたと思うと、利一が不機嫌をみせる前に次々と言葉が続いた。


「訳アリなんて自分に酔うような言葉使って人を遠ざけるのは、いただけねえなと思うわけよ」


 口を挟もうとするが、機関銃とはこのことか、しかも酒が入っている社長の口を閉ざすことが出来ない。


「それに結婚を一回失敗したからってなんだって言うんだ?子供のことは気の毒だと思うけれど、おまえに否があるのか?ないだろう?誰も悪くない。大体結婚の失敗ってそんなに恥ずかしい事か?一度どころか五度失敗した俺のダチはなんだってんだ?しかも毎回ガキが出来てるんだぜ?そんな節操ナシでも悪びれるどころか、また新しい女が出来たとか聞くし、一周廻っていっそ羨ましいまであるぞ」


 モテたい!とひとしきり大きな声で叫ぶと周りの客や通行人が、こちらをじろじろと見て過ぎていく。


「まあ…何が言いたいかって言うとな、おまえは良いやつだし、野崎も良い子なんだよ。見たとおりだがあの子は引っ込み思案なところがあって、アプローチも出来ないし、いい話が来ても口下手が災いしてなかなかうまくいかないんだ。もしおまえがあの子を気に入っているなら、一緒になって欲しいわけ。なんだかんだ二人とももう十年位の付き合いで、俺にとっちゃあ、子供も同然なんだよ。幸せになれないなんて許せねえんだよ」


 今度はほとほとと涙を零し始める。社長は酒は強い方だ。酔っぱらって絡むことはあっても泣く姿なんて初めて見た。利一は動揺しながらも鞄からハンカチを探して差し出す。それを受け取った社長は遠慮なく鼻を噛んで握り締めた。


「恋愛も結婚も結局は当人の問題だとわかっちゃいるけどな、年寄りはそういう世話も焼きたいんだよ。鬱陶しいかもしれんが、許してくれよなあ」


 そう言って社長は屋台の主人を呼びつけた。酒の追加と、全種類のおでんを一つずつ持ってこいと頼む。からしを添えた五枚分の皿におでんを全種類乗せてテーブルに並べた。社長は「食べろ、な、若いもんは沢山食え!」と酒を煽る。手を合わせて箸をつける。出汁がよく沁みたおでんは熱くて舌をぴりっと焼いた。涙が出そうだった。

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