第38話 新生活

 新しい職場は新しいオフィス街が並ぶ一角にあった。家の面倒も社長自らみてくれて、会社の最寄り駅から四つ先の住宅街のアパートを借りることが出来た。引っ越しも、これまた社長がトラックを走らせ迎えに来てくれた。役所の手続きも二度目となると慣れたもので慌ただしさはあっという間に過ぎ、新生活の滑り出しは順調だった。


 総勢十名程の小さな会社で利一はまたもや最年少の社員だった。呉服屋での下働きの成果はいかんなく発揮された。頼まれたなら雑用、事務仕事と人並みにこなしていく。品質を見る目は特に買われ、営業マンとして引き抜かれた先輩と共に取引先を廻ることも多くなっていた。


 仕事は楽しかった。楽しいというのは多少語弊があるかもしれない。楽しいと余裕が出たのはずっと先のことだった。とにかく他のことは考えないようにと仕事に打ち込んでいた。おかげで周囲からも真面目な青年と見られていた。

 社長は食事や飲み会に社員を連れて行くことが多かった。労ってくれることは有難かったが、他の社員が親睦と銘打って仕事の枠を超えてくるのはどうにも困っていた。つまらない人間だと思われた方が都合が良かったので私生活を聞かれても、のらりくらりと躱していた。


 そんな生活もあっという間で八年の月日が過ぎて行った。

 年末も近くなってきた頃、忘年会と称して社長はまた居酒屋へと社員総出で連れて行った。その年の業績は順調に伸びていたこともあって、社長は随分機嫌がよかった。普段なら会社に二人しかいない女性社員は先に帰らせることが普通だったのに、その日は二件目と梯子して時間は日付を跨ごうとしていた。その日の飲み会に参加していた山田という女性は子供を理由に一杯だけ飲んですぐに帰ったが、もう一人の野崎は帰るタイミングを逃し端っこでノンアルコールで時間を潰していた。三件目の話になった時に利一はいい気分の社員たちに割って入る。


「社長、もういい時間なんで、彼女を送り届けようと思うんですが」

「もう、そんな時間かあ」


 呂律も怪しくなっていた。後ろポケットに仕舞った分厚い財布を取り出して一万円を利一に握らせた。


「タクシー捕まえて帰りなさいね。気を付けるんだぞお」


 そう言って残りの男性社員を連れて夜の町へと消えていく。

 利一は野崎と共に大通りに出てタクシーを呼び止めた。


「一緒に乗って行きませんか?」

「え、でも…」

「うちは此処からそう遠くないので、その後内田さんの家まで走って貰ったらいいかと思うのですが」

「じゃあ、遠慮なく」


 彼女はタクシーの運転手に行先を告げると走り出した。利一も、自分の家の住所を告げた。


「社長に申し出てくださって助かりました。山田さんから飲み会が始まる前に、忠告されていたんですが、すっかりタイミングを逃してしまって」

「今日は仕方ないですよ。社長も他の人も飲むペースがいつもよりずっと早かったですし、随分盛り上がっていましたもんね。水を差さないように気遣ってくれていたんでしょう」

「そんな…ただ言い出せなかっただけですよ」


 横目で野崎を見ると恥ずかしそうに俯いていた。多少なりとも褒められたことが嬉しかったのか口元が緩んでいる。

 男社会にも恐れることなく対等に渡ろうとする山田とは対照的な女性だ。自分のことを表現するのは苦手なようで、誰も気づかないところでいつのまにか仕事をこなしていき、皆がスムーズに仕事が出来るように支えていく縁の下の力持ちだ。体の小ささからもまるでおとぎ話の小人のようだと思った。ついそんな姿を想像してしまい吹き出しそうになる。

 それ以降会話がなくタクシーの運転手が流すラジオの音が三人の耳に届く。最近あった出来事という他愛ない話をゲストが話しDJが馬鹿笑いをする。運転手はくあっと口を大きく開けて欠伸をしていた。

 暫くすると住宅街に入っていく。彼女は「あ」と囁くような声を出してタクシーの運転手の方へ身を乗り出した。


「そこを右折です。十字路を二つ目過ぎたら左手側につけてください」


 停車した場所を窓から覗くとブロック塀に囲まれた二階建ての一軒家が目に映る。至って普通のなんの感想も浮かばない家だ。結婚はしていなかったはずだから、実家だろう。


「それじゃあ、お先に失礼します」


 彼女はタクシーを降りる直前で挨拶をし降りて行った。「あ、はい」とつまらない返事をしてしまう。これではいけないと利一はハンドルをグルグル回して窓をあけて「おやすみなさい」と言った。


「はい、おやすみなさい。お気をつけて」


 タクシーはその言葉を聞いてアクセルを踏んだ。利一は後ろの窓から野崎の姿を見るとまだ家に入らず立っている。利一は届かない彼女に手を振ってみせた。少ない街灯の明かりでは気付くわけがなかった。恐らく彼女も自分が見送っていることを利一が気付いていないと思っているのだろう。タクシーが道路を曲がり彼女の姿が見えなくなるまでずっと見送ってくれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る