第18話 聞かなきゃよかった
さやかは不機嫌だった。
利一の引越しの準備をした後、英恵は施設に利一の様子を見に行っていた。環境が変わったばかりだと精神的にも負担になるからと一週間に二度足を運んでいる。それが今日までで三週間続いている。毎回一緒に行こうと誘われたがさやかは首を縦に振らなかった。勉強が忙しいと理由をつければ、英恵は強制はしなかった。ところが言葉とは裏腹に勉強は手につかずぼんやり過ごす時間が多かった。
それも全ては利一のせいだ。さやかは利一が引越しした日からずっと利一の顔が目に焼き付いていた。
おばあちゃんが亡くなったばかりだというのに、知らない女性から手を握られただけでぽやんとしたあの顔!あの女性もなんなのよ。気軽におじいちゃんに触れるなんて信じられない!あの世代ってそういうのは「はしたない」とか言って怒るんじゃないの?
思い出すだけで怒りがこみ上げる。そうでなくても常にもやもやしていた。そんな中英恵が利一の元へ行ってと頼まれる。
「やだよ。忙しいって言ってるのに」
「お願いよさやか。急に用事が出来てどうしても行けないの」
「三日前に行ったじゃん。別に一日抜けても良いでしょう」
「そうは言っても、まだ一か月も経ってないし、新しい環境は不安なものでしょう?おじいちゃんもさやかはどうしてるんだーって心配してるのよ」
心配される側が心配ってどういうことよ。と心の中でぶうたれる。とはいえあれから利一がどのように過ごしているのかは気になった。もしかしたらあの女性と仲睦まじくなっているのかもしれない。そんなことは杞憂で寂しくしているのかもしれない。後者ならあまりにも可哀そうだ。
これは偵察だと自分に言い聞かせて電車に乗り込み施設へと向かった。
駅から近いとはいえ、太陽の日差しは容赦なく熱と共に浴びせてくる。日傘を持っていないさやかは施設に着いた頃には汗だくになった。額や首回りを念入りにタオルハンカチで拭い、息をついてから自動ドアを潜った。冷房のひんやりとした風が心地よく息をつく。
「あら、いらっしゃい」
突然声をかけられたさやかはひっと声をあげる。誰も居ないと思っていたカウンターの方を見ると清子が立っていた。
「驚かせちゃったかしら。ごめんなさいね」
さやかの方からは見えないカウンター下にある棚を弄っていたそうで、丁度死角になっていた。
「さやかちゃんよね。おじいちゃんに会いに来たの?」
「あ、はい」
特に会いたいわけじゃないけれど、他に理由がないので肯定する。
「おじいちゃん喜ぶわね。あ、でもこの時間お風呂に入ってるかも。食堂かおじいちゃんのお部屋で待つ?」
そう言って清子は思い出したと言葉を続けた。
「そうだわ。今日雪美さんがゼリーを作ってるって言ってたの。良かったら食べて行かない?」
ゼリーと聞いて思わず喉が鳴る。夏の日差しに照らされ続けた後に涼し気なものを想像するだけで欲しくなる。
「雪美さんいつも多く作るからきっとあるわ。二階に行きましょう」
小走りでカウンターから出て来た清子はさあさあとさやかの背中を押してエレベーターに乗り込んだ。
二階の食堂は誰もおらずがらんとしていた。きよこに適当にすわってと言われ、迷った挙句、初めてここに来た日の夕食時の席を選んで座った。
清子は厨房に向かって雪美を呼びゼリーを出してとお願いしている。雪美は待っててと返していた。
「すぐに持ってきてくれるからね。おじいちゃんのお風呂が終わったら此処に来るように言っておくわ。それじゃあ、ごゆっくり」
言うだけ言うと清子は小走りでエレベーターの方へ行き降りて行った。
なんだか嵐のような人だな。嵐にしては可愛らしいけれど。そんなことを考えながら出てくるゼリーに心を躍らせる。スマホを取り出して誰からか連絡がないか確かめたりSNSを開いたりして時間を潰した。
「お待たせ」
ぼそっと呟いて雪美はガラスの器に入ったゼリーと氷がたっぷり入った麦茶を置いた。爽やかなオレンジ色が目に飛び込む。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
口いっぱいに広がる甘酸っぱさが疲れた体に沁みわたる。市販のゼリーより甘すぎず、直接食べる柑橘より酸っぱさが抑えられた丁度いい味だ。昔晴子が作った寒天ゼリーを思い出した。夏休みに遊びに行くと、必ず作ってくれたおやつだった。缶詰のみかんを汁ごと使った寒天は素朴な味わいでさやかのお気に入りだった。晴子のゼリーとは全く食感も味付けも違うが何故か重なった。
「美味しいです」
「そう。それなら良かった。ごゆっくり」
雪美は厨房へと戻っていった。
少し腰を浮かしてカウンター越しに厨房を覗くと雪美はこちらのことなど気にしていないというように椅子に座り雑誌に目を落としていた。さやかはほっとした。この間と違って一人だと意識すると変に力が入ってしまう。食べてる姿を見られてると思うと緊張する。誰の目も気にならなくなったところで目の前のゼリーをゆっくり味わい楽しんだ。
最後の一口を惜しみながら味わっているとエレベーターがちーんと音をたてる。おじいちゃんかなとそちらに目をやると、驚いて口の中にまだ形が残っていたゼリーが喉の奥へと沈んだ。
おじいちゃんの手を握っていた人だ!
瞬きも忘れてじっと見てしまったせいで志津子はさやかに気付いて近づいた。
「こんにちは。利一さんのお孫さんよね」
「コンニチハ…」
挨拶を返すと気をよくした志津子は断りもなくさやかの向かい側に座った。
「可愛らしいわあ。利一さんに良く似てるのね」
似てると言われ悪い気はしなかった。幼い頃から利一と歩くと似ていると言われた。子供の時は大好きなおじいちゃんに似てることが嬉しかったが、大きくなって利一の容姿の良さに気付いた。その頃からおじいちゃんに似てると言われると顔が綺麗と同義だと思うようになった。
褒められたことをいいことに、にこにこと自分を眺める志津子につられて顔がにやけてしまう。いけないと頭の中で渇を入れ、顔を引き締めた。
「あの!」
つい大きな声が出てしまう。彼女は変わらずにこやかだ。咳払いをして声のトーンを落ち着かせた。
「おじいちゃんとはどういう関係なんですか」
今度はきょとんと小首をかしげた。質問の意図が解っていないのか、解っていて惚けているのかはかり知れず苛ついた。
「どうしてそう思うの?」
「ほら、だって、おじいちゃんの手を握っていたでしょう?知り合いとか、友達とか大した関係じゃないなら、あんなことしないと思うんです。それに、おばあちゃんが亡くなってまだ半年しか経ってないのに、」
なんか嫌だったと続けたかったが、底から沸き上がる不確かな不快感と悔しさから泣きそうになる。ぐっと堪えて下唇を噛んだ。
此処に来なかった三週間、あれこれ想像した。昔恋人だったとか、不倫関係だったとか。おばあちゃんに隠れて不貞を働いていたと思うと気分が悪くなった。ただ手を握っただけなのに、あの瞬間二人の間にただならぬ空気感があったと直感してしまう自分にも腹がたったのだ。
「そっかあ…確かに不躾だったわ。気を煩わせてしまってごめんなさい」
志津子は頭を深く下げた。思わぬ反応にさやかの方が慌ててしまう。冗談めいて否定されるか、失礼な態度だと叱咤されるかと思っていたからだ。
「懐かしくて浮かれていたのね。ご家族の前で本当に失礼なことをしてしまって…恥ずかしいわ」
耳を触りながら言った。本当に恥じているようで真っ赤になっている。
「さやか?」
志津子とさやかがどうして向かい合っているのか、利一は驚いた。志津子は見るからに耳から首にかけて赤くなって落ち着かない様子でいるし、さやかは心なしか自分を睨んでいるように見えた。
「何かあったのか?」
二人の顔を交互に見る。
「おじいちゃんと、この人の関係を訊いただけだよ」
「は?え?」
なんでそんなことを訊ねるんだ?と続けたかった利一は、言葉の代わりに目を泳がせた。
なんでもないと否定されるとばかり思っていたさやかは目を見開いた。
志津子は利一にどうしましょうと目で泣きついた。
「え、嘘でしょう?本当に何かあったの?」
とんでもない記憶の箱を開けようとしているのかもしれないとさやかは勘づいた。今なら聴かなかったことに出来たのかもしれない。これから先、見なかった振りをして利一と対面することが出来るのかと自問する。答えは決まっていた。僅かに開けられた箱から目を背けるには遅かったのである。
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