第17話 婚約者
彼女たちがきゃあきゃあと声に出してはしゃぎ、利一もすっかり気をよくしていた。周りに気を遣う余裕もなくなっていた。呉服屋の利一としてではなく年頃の利一がそこに居た。だから傍に人の気配が近づいてきていたにも関わらず気付くことが出来なかった。
「志津子」
野太い声に名前を呼ばれた志津子を始め誰もが振り返る。そこに立っていたのは利一を震え上がらせる人だった。隠れていた呉服屋の利一が一気に蘇る。
「お、小野寺様」
「やあ、呉服屋の。君も来ていたんだな」
小野寺は唇に弧を描き目も少し細めて見せる。それが無理矢理怒りを隠し作った笑顔だと誰もがわかるくらい引きつった顔だった。女学生は子女らしく挨拶を交わしすぐにその場を離れた。視線は残された利一にだけ注がれる。笑っているのに野生の狼のような視線に利一は身体を強張らせた。
「お父さま、利…内田さんは私が誘ったのです。ほらいつもお世話になっているじゃないですか」
「うむ、そうだな。娘と仲良くしてくれてありがとう」
「と、とんでもないことでございます…」
なんと返せばいいのかわからず言葉に詰まった。
いつもお世話になっております?愛娘の話を振られて業務用の挨拶は気を悪くするかもしれない。
こちらこそよくしていただいて?どういう意味だと問われて答えられる自信がない。なにを言っても正解は導き出せなかった。
「志津子、挨拶なさい」
「え?」
「勲くんが来てくれたぞ」
志津子は大きく目を更に見開き青ざめた。小野寺の後ろにいた人物には気づいていたが慌てふためいていた利一は勝手に彼を小野寺の付き人のような者だと思っていた。親し気に呼ばれた彼と、志津子の様子を見てただ者ではないと察した。
「勲さん…」
「志津子さん、随分ご無沙汰してすまなかったね」
「私の方こそ長らくご挨拶に伺わずごめんなさい」
勲と呼ばれた男は無表情だった。志津子は目を泳がせながら肩をすくませている。二人のぎこちないやり取りながらも、ただならぬ空気から他人ではないと理解する。
「こちらの方は?」
今まで気づきもしなかったと言わんばかりに利一に目をやって訊ねた。
「えっと、呉服屋で働いている内田さんです」
「内田利一です。小野寺様にはいつもお世話になっております」
慌てて頭を下げた。下げた頭をあげるのが怖くて地面をみているしかなかった。
「ああ、あのポスターの。以前、志津子さんを酔っ払いから助けてくださったそうで。あなたがいなければと想像すると恐ろしいものです。感謝の意に堪えません」
その声に怒りも喜びもなかった。何を考えているか判らない抑揚のない声がただただ恐ろしくて顔をあげても、まともに目をあわせることが出来ない。かすれる声で「いいえ」と答えるのが精いっぱいだった。
「忙しい中を勲くんが来てくれたんだ。ゆっくりしてくると良い」
「はい…お父さま」
「ご主人によろしく伝えてくれ。では内田君。これで失礼するよ」
何度もきいた「失礼する」という何気ない挨拶。これ以上関わってくれるなという暗示だ。直接的な言葉を言えば「失せろ」だ。小野寺の燻ぶった感情は隠しきれず、改めて下げた頭のつむじから焦げ付かせるような視線を浴びせた。
「良いのですか?お話をなさってる途中でしょう?」
「いえ。世間話をしていただけですので」
「そうですか。では参りましょう」
遠くに離れていく二人の世間話が孤独感を増す。そこにある身分の壁を超えられない無力感に押しつぶされそうだった。
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