第16話 チャリティーコンサート
スーツは予定よりずっと早く仕上がった。細かい直しはあったものの、出来上がったブラウンのスーツは店に届けられたのは予定より三週間も早かった。呉服店で最後の試着をした際に、店にいた従業員が過度に褒めてくれたのが気恥ずかしかった。
そして今日までハンガーにさげられたスーツを何度も眺めていた。当日が楽しみで、自分だけのスーツを作ってもらったことが嬉しかった。
「失礼のないようにな」
誘われていたチャリティーコンサートへでかける直前になって鏡さんは念を押しに来た。礼儀を忘れるなということだろう。立場をわきまえろという意味が含まれていることを利一には解かっていた。女学校主催のチャリティーコンサート、つまりは学校に通う子女の親や親族が訪れる。その中には馴染の客もいるのは間違いない。誰かから話かけられることも想定しておかねばならない。志津子の友人として招待されても呉服屋の看板を汚すような真似はできないのだ。
「いってきます」
それでも胸が高鳴っている。初めて生でバイオリンの音を聞けるからだ。決して志津子に会えるからではないんだと、そう自分言い聞かせて雲一つない澄み渡る空を仰いだ。てっぺんに太陽が輝く空の下に立つとぽかぽかと温かい。涼しい秋の風が心地よかった。
女学校は一番近い駅からバスで十五分程の距離にある。普段使わないバスも利一の心を浮き立たせる。それほど遠くもないのにちょっとしたお出かけが新鮮だった。
早くに着きすぎてしまったのか、会場には人は数える程しか揃っていない。顔見知りも特に居なかった。目が合う人には頭を下げるが相手はそっと視線をそらすだけだった。会場を見渡すと真正面に舞台があり、壁には十字架がかけられている。此処でコンサートが行われるのだろう。中央に飲み物やフィンガーフードが用意されていた。昼食は食べて来たのでそれほど食欲はなかったが、大皿に盛られている料理に思わず喉が鳴る。食らいつきたくなる衝動を抑えて会場の隅に立っていた。
暫くすると続々と来る招待客は大抵は生徒の親と見られる年代の人だった。その中には見知った顔がある。予想していた呉服屋の客だ。その度にこちらから挨拶をした。普段とは異なる服装に初めは首を傾げられることもあったが、呉服屋のと言えば頷いてくれる。「ああ、広告の」と返されることも少ないが表に出ることも増えて来たので「世話になっているね」と労ってくれる人もいた。
二十分もすると気付けばがやがやと話し声が大きくなる。客層も若い人が増えていた。
「大変お待たせしました」
マイクを通した年配の女性の声が会場に響き渡る。じゅっと炎が消えるように賑やかだった会場が静けさが広がった。視線が一手に女性へと移る。利一も同じように声のする方へ身体を向けた。そこには黒服で身を包み、頭もすっぽりと覆い隠せる裾の広い頭巾を被ったシスターが立っている。少し頭を動かすと銀縁の眼鏡がきらりと光った。
「本日はチャリティーコンサートにお越し下さりありがとうございます」
そこから二分程度の話が始まる。体感では五分以上である。これまでどういった活動をしてきたとか、戦後の苦しい生活を送る人への支援をお願いする話が続く。無論他人事ではなくても、会場の空気感というか、孤児の自分とは世界が違っている温度差を感じ綺麗ごとを並べているだけだと白けた気持ちがあった。
「軽食をご用意しておりますので、お寛ぎいただきながらごゆっくりとお楽しみください」
拍手が起こる。社交辞令のような乾いた拍手だった。シスターが裾に引っ込むとぞろぞろと制服の女学生が出てくる。カーテンの傍にマイクが置かれ、一人の女子生徒がその前でプログラムを読み上げた。
ピアノの音色から始まり歌声が響いた。聴きなじみのない歌だ。所々神と聞こえるので聖歌だろう。
最初こそ耳を傾けていたが、入れ替わり立ち代わり出てくる生徒のコーラスが続く。待っている千世が出てこなくて意識は軽食に移っていた。せっかくだし少し摘まもうとテーブルに寄ろうとした時にコーラスが終わり拍手が沸き起こる。慌てて周りに倣って手を叩いた。
「続きまして有志によるカルテットです。曲はチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番第二楽章」
新しい団体が出てくる度に送る拍手の音もどこかぞんざいに鳴っている。その頃には静かに耳を傾ける人がいる一方、親同士の会話に華が咲いている人もいた。
制服で細い身体を包んだ志津子の姿があった。あの時みせてくれたバイオリンを構えている。それぞれが目くばせをして息を吸ったのを合図に音が鳴った。滑らかに奏でられる音はまるで春の風を思わせる温かで優しい音色だった。四つの音のどれが千世のバイオリンかは利一にはわからないが、楽器の音色がダイレクトに体に響く。特に胸のあたりが振動していた。右手で弓をゆっくりと上へ下へと動かし左手で弦を震わせる。他の三人は緊張が顔に出ていた。反面志津子だけがいつもの笑みを浮かべて落ち着いている。誰よりも楽しそうな志津子にばかり目が向いていた。次第に志津子が奏でる音を聞き分けることも出来た。瞬きも忘れるくらい彼女にだけが目に映っていた。
ふと音が止まり四人が会場に向かってお辞儀をして、それまでとは違う熱心な拍手が長く続いた。利一も掌に痛みすら感じる程に懸命に手を叩いた。こんなにも夢中に手を叩いたことはなかった。顔をあげた志津子は勿論、他の三人にも安堵の色と喜びが滲んでいた。
全ての演目が終わった後、最初の挨拶をしたシスターが再び壇上にあがり、最後の挨拶をする。利一は言葉を頭に流すことが出来なかった。カルテットの興奮も覚めず、すっかり惚けていた。西洋の楽器に、何より楽しそうに奏でる志津子の姿が目に焼き付いていた。
「利一さん!」
正気を取り戻したのは彼女の声だった。さっきまで気持ちよく奏でていたバイオリンはなく、手ぶらで駆けてきたようだ。頬が少し赤い。利一と同じように高揚しているのかもしれない。
「来てくださったのね。嬉しい」
「とても素敵な演奏でした。月並みですが感動しました。バイオリンの伸びやかな音って歌っているようなんですね」
「本当?良かったぁ」
手を胸にあててほっとしたと彼女は言う。緊張していたからとちってしまわないか心配していたそうだ。一緒に演奏していた三人には多少その様子が見えたが千世にその気配はなかった。
「緊張しているだなんて、全くそう見えませんでしたよ」
「始まる前に掌に人って三回書いたおまじないが効いたのかも」
効果抜群だと二人で笑っていると、はしゃぎ声が傍で花咲いた。一緒に演奏していた三人である。
「志津子、その方どなた?」
「もしかして、彼が志津子の良い男性?」
女子が三人寄れば姦しいだなんて聞くが女学生の声は華がある。ただ自分たちがそう見えているのかと思うと身分不相応な立場だと自覚する。しかしそれよりも気恥ずかしさと嬉しさが勝って悪い気はしなかった。
「格好いい…それにしてもどこかで見たような?」
「知ってる!昔呉服屋のポスターで見たわ。そうでしょう?違う?」
「え、ええ…まあ…」
「やっぱり!」
よく年配からはお世辞を含めて言われても同世代からの言葉は直に聞く機会はそう多くない。ストレートな言葉は利一には手に余ってしまい、うまく受け答え出来ない。
「それで?どういうご関係?」
一人が口角をあげて志津子に左腕を押し付けて揶揄った。眉を下げて困るかと思いきや彼女は満面の笑顔だった。
「そうよ。私の良い男性」
彼女はお嬢様、片や自分は身寄りのない孤児。これは遊びだ。彼女にとって日々の退屈を紛らわすだけの関係だ。そう自分に言い聞かせ続けた。
危険信号が頭に鳴り響く。のめり込んではいけない。
期待は同時に未来の自分への警告だった。それなのにこの時の利一は志津子の言葉を本気にしてしまったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます