★第15話 家庭菜園
利一が施設に越してきて一週間が過ぎようとしていた。変らず食堂で読書をして過ごす日々が続く。部屋で静かに過ごすことが一番落ち着くが、雪美が厨房で仕事をしている音や時折話しかけてくれるスタッフの声が存外心地よくて、一日の中でも食堂にいる割合が増えていた。晴子が死んでから生活音が少なくなっていた侘しさが此処に来てより実感できる。
今日も昼間は自室で少し眠って夕方に食事までの時間を潰しに食堂の指定席になった窓際の席でぼんやりと本を眺めて過ごしていた。
「あらあらよく育ったわねえ」
清子の伸びる声が耳に届く。振り返ると彼女の手には大きく膨れたビニール袋があった。
「今年は豊作なのよ。赤くなるのも早かったから、デイの人にもおすそ分け出来るわ」
「そう。あら、こっちのゴーヤも美味しそう」
声で夕ご飯の下ごしらえをしていた雪美は手を止めて厨房から顔を覗かせた。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました。雪美さん、これ使ってくださいな」
雪美は差し出された袋を受け取る。中身を確認して目を見開いた。心なしか頬を染めているように見える。
「素人のものですけれど使って貰えると嬉しいわ」
「充分立派ですよ。助かります。ありがとうございます」
利一は意識もせずに驚きの声が出た。大きな声が出たせいで皆が利一の方へと視線を向ける。
「利一さん!こちらにおいでだったのね。ただいま戻りました」
おかえりなさいと答える前に頭に浮かんだ言葉が先に出た。
「素人ものってあなたが?」
無論、その後は「育てたんですか」と続く。志津子は笑顔を絶やさず肯定の返事をしようとしてはっと留まった。そして恥ずかし気にこくりと小さく頷いた。
とても信じられなかった。あの小野寺家の、お嬢さまが、農作業をしているなんて利一の記憶にある志津子と合致しなかったからである。土を触るなんて想像も出来なかった。
「やっぱりおかしいかしら。私が土いじりなんて」
「い、いや、そんなことはないんですが…」
志津子ははにかんだように目を伏せた。利一の記憶にある白魚のような指はバイオリンを弾くためのものだった。綺麗な洋服とかかとのある靴を履く。泥汚れなんて縁のない人生だと思っていた。
「そうだわ。利一さんもやってみません?デイサービスで家庭菜園をやってるの。今はこういったトマトやきゅうりが沢山とれるのよ。凄く楽しいわ」
「まあ、機会があったら」
適当な返事をする。まだ利一の頭は追いつかないでいた。
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