第19話 短い手紙
チャリティーコンサートから一か月が経ち、利一は必死に働いていた。と言うより結果忙しくなった。年越し後の成人の日の前に年頃の女性を持つ家族がこぞって買い付けにきた。忙しいことは都合が良かった。常に動いて思考を仕事に向けていないとコンサートの日のことを思い出してしまう。小野寺の父親の気迫、婚約者の存在、志津子への恋慕、煩悩が頭の中で渦を巻いている。考えても無意味だと判っていても落ち着かなかった。気を紛らわそうと意気込んでいた。
意識して働いていた利一だが、鏡さんもそれまで以上に仕事を割り当てていたと感じた。店の当番は勿論、外回りの付き人、会合の付き合い、それまで着物が多かったがスーツを身に着ける機会が多くなっていた。言われるがままに鏡さんについて勉強をし、小間使いのような働きもみせ利一は天手古舞になりながら必死に食らいついて働いた。期待されていると思うと気合も入る反面、スーツが草臥れてクリーニングに出す時はどこかほっとしていた。クリーニングに出している間は外回りはしなくても良い。それが嬉しいと思うのは鏡さんに対する恩義から反していると考えると余計に申し訳なかった。
気がかりはもう一つあった。志津子が全く顔を見せなくなっていた。それまで店に一人でもやってきたし、道端でもよく出会っていたのが、一か月丸々会わないのはこれまで一度もなかった。
一体どうしたのだろうか。忙しいのだろうか。病気せず元気で居てくれればいいんだけれど。それとも自分との付き合いを咎められたのかもしれない。彼女は十八歳だ。卒業すればあの婚約者の元へ嫁ぐのだろう。花嫁修業も本格的に始まっているのかもしれない。
利一の心には小さな炎が燻ぶっていた。
十二月に入ると町は賑わいと共に忙しなさが共にやってきた。利一にとってそれまでの忙しさからするとあまり変わりはない。それでも世間の雰囲気に飲まれ気持ちも追い立てられている。
それでも志津子の事が頭から離れる日はなかった。目の前の仕事に集中しながらも、若い女性がやってくる度に面影が見える。酷いときは『志』や『津』という字を見ても志津子の影がちらついた。重症だなと目を擦る。いっそのこと早く結婚でもしてくれればいいのに。「おめでとう」と言えれば忘れられるのだろうか。想いも未練も何もかも消えるだろうか。
「内田さん。内田さんってば」
間延びした声には気づいたが自分を呼んでいるとは思わなかった。それもそのはず、蚊が鳴くように話しかけるものだから肩を叩かれるまで気付かなかった。
「うわ!吃驚したあ…」
「ずっと呼んでましたってば」
「それはすみません。それでなんですか?」
「お客さんです。あの例の彼女さんですよ」
人が忘れようと努力しているのにと憤る。それでも久しぶりに訪ねて来てくれた喜びが上回った。
「お、小野寺様が?」
「しーっ!」
普通の声量で答えると彼女は無遠慮に口を押えて大袈裟な態度をとる。
「大きな声はダメですってば。せっかく気を遣っているのにい…」
「それは、はい、ごめんなさい?」
気を遣うの意味が理解できないまま、思っても居ない謝罪を口にする。彼女はぷーっと頬を膨らませた。
「まあ、いいですけれど。これ渡しましたからね。誰にも言っちゃだめですよ」
丁寧に四つ角揃えて折りたたまれたメモ用紙を渡された。どういうことかと訝しんだ。言われる通り見られたらまずいと思い厠へ駆け込んだ。メモ用紙を開くと女性らしい筆跡が目に飛び込む。
『お仕事終わってからで結構です。お時間いただけませんか。喫茶店で待っています』
さっき時間を見たところだ。十六時。日も傾いている。仕事が終わるのはあと一時間。今日は予約分もすでに終わっている。何事もなければそのまま上がれるだろう。無理を言えば片付けは彼女に任せられる。
メモを懐に仕舞って店に戻った。
忙しいと時間が過ぎるのはあっという間だ。今日に限っては客足も少なく、懐のメモばかり気を取られて何度も何度も時刻を確認する。あと五十分、四十分、三十分と長いカウントダウンを刻んだ。
「どうぞあがってください」
呆れた口調で彼女が言った。
「気になるんでしょう?あとは片付けだけですから、私一人でもなんとかなりますよ」
「いえ、でも、しかし」
「私には任せられないっていうんですか?」
「そんなことはないですが」
まだ経験不足な面は否めない。心配がないとは言いきれなかった。彼女の面倒をみて使えるように教育するのも利一の仕事だ。
「それに小野寺様のお嬢様でしょう?こんな時間に待ち合わせなんて大丈夫なのかしら。早く行って差し上げた方が良いんじゃないですか?」
門限とかと付け加えてはっとする。年頃の女性がこんな時間にまで外にいるのは危ない。梶山が必ず共にするので一人ではないだろうが、一方的な約束とはいえ待たせ続けるのは良くない。利一は礼を言って急いで着替えて駆けだした。
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