第35話 夢の終わり

 目が覚めると、自分が今どこにいて、どこにいるのかわからなくなる。見慣れない天井、私を囲む白いカーテン。そこが病院だと理解するまでに時間がかかる。どうしてこんなところにいるの?自分に問いかけても答えは返ってこない。その前にまた目を瞑ってまどろみへと戻ろうとした。訳が分からないのに胸が軋んでとめどなく涙が流れる。考えてはいけないと頭の中でサイレンが鳴る。このまま眠らなくちゃ。眠らなくちゃ。


「目が覚めましたか」


 誰かの声で閉じた目をもう一度薄っすら開けた。視界に映るのは割烹着姿の年老いた女性だ。後ろでひとつに纏めた灰色の髪が日差しで煌めいた。


「熱を測りましょうね。起き上がれますか?」


 優しい声で問いかけられる。そんなの無理よ。そう言いたかったが声に出ない。すると女性は前合わせの寝間着から手を突っ込んで無理矢理体温計を脇腹に指した。時間を計って取り出す。


「三十七度…」


 そう呟いて何かに書いている。


「志津子さんは何がお好きかしら。昨日はおかゆを少しだけ召し上がっていたけれど、他に食べられるものはありますか」


 そうだったかしら。昨日何を食べたかなんて覚えていない。


「今朝は卵のおかゆと梅干、お野菜を少し、それからおみかん。缶詰でもうしわけないですが」


 頭を右に傾けて片足のないベッドサイドテーブルに置かれたトレーを見る。小さなガラスの器にオレンジ色のみかんが透けている。喉が渇いた。少しだけ食べたい。重い体を起こそうとするもうまく動かなかった。割烹着の女性は志津子に手を貸した。腰のあたりに枕を二つ重ねて背中を預けた。


 ベッドに差し込むようにテーブルを設置する。まだあたたかいおかゆの湯気がお米の香りを運んだ。スプーンを持って口に運ぶがうまく喉を通らない。


「う…」


 食べ物を受け付けなくてえづき吐いてしまう。女性は慌ててティッシュの箱を持ち出し。片手で背中をさすりながら、吐き出したおかゆをティッシュで受け止めた。


「大丈夫よ。ゆっくり息をしましょうね」


 意図せずぼろぼろと流れる涙と嗚咽を無理矢理止めようとしても止まらない。そんな様子を見て女性は背中を擦り、時に優しくぽんぽんと叩いた。


「そうね。辛かったわねえ…」


 恥も外聞もかき捨てて子供のように女性の胸に体を預け泣き続けた。

 私は子供だ。子供だから赤ちゃんは私の元に来れなかったのかな。こんな時に故郷の両親の顔が思い浮かぶ。言うことをきけばこんなことにならなかったのかもしれない。そう思うと無性に自分に腹が立った。私の為に人生を捨てさせた利一を裏切ってしまう考えを掠める自分が厭になる。

 また頭がぼんやりしてきた。忘れてしまいたい。こんなこと全て。


 次に目を覚ましたのは何も見えない暗闇の中だった。かちっかちっと時間を刻む針の音が耳をつんざく。次第に目が慣れてきて、まだ病院にいるのだと解るとスイッチを押したようにに涙があふれた。これは嫌な夢ではなく辛い現実だと自覚すると暗闇が更に濃くなり重くのしかかる。

 消えてしまいたいと願っては泣き叫び、鎮静剤を打たれ、一向に終わらない悪夢に苛まれる日々が続いた。



 話声がする。聴きなじみのある声。懐かしい。

 志津子は目を開けた。数日経つと病院の天井にも違和感がなくなっている。


「お嬢様」


 眠気眼が大きく見開いた。いるはずのない梶山が顔を覗き込んでいる。頭が混乱した。此処は確かに病院のはずだ。それなのにどうして梶山が目の前にいるのだろうか。体を起こそうとするが、数日ほぼ点滴で栄養をとっている志津子は体力が殆どなく自由がきかない。梶山は起き上がろうとする志津子に手を貸して体を起こす手伝いをする。


「どうしてあなたが?」


 かすれた声でなんとか訊ねた。その間に食事を用意してくれている割烹着の女性が体温計を差し出した。女性が「ごゆっくり」と朗らかに答えて部屋を出るまでその間梶山は一言も話さなかった。二人っきりになってから淡々と顔色変えずに話し始めた。


「昨日の朝、内田さんが連絡を寄越しました。あなたの容態を伝えてね。旦那様と奥様にそのことを報告し、昨夜に到着し今に至ります」

「利一さんが?どうして…」

「とりあえずご朝食を召し上がってください」


 ベッドサイドテーブルを差し入れた。少し冷めた重湯と梅干が用意されていた。初日に出ていたおかゆは水の割合が増えた重湯に代わっていた。梅干しもほぐしてあえ物のお野菜も柔らかく炊いた汁物に変更されていた。

 初日よりは食べられたが、やはり食べきることは出来ず残してしまう。抵抗はあっても体が受け付けていない。


「もう、よろしいのですか」

「ええ…」

「結構です」


 テーブルを引き抜き、用意されていた玄米茶を差し出す。お茶だけはなんとか飲み切れた。


「お嬢様」

「は、はい」

「私が此処に来た理由は解かりますね」


 利一が連絡したからだ。その理由は自分にあるのだと志津子は目を伏せる。


「どのように暮らしていたかと思えば、こんなことになっているとは、ね。皆心配し、あなた方を探し回っておりましたよ。まさかこんな知らない土地にまでお出になっているとは」


 梶山はこれ見よがしにため息をついた。志津子はひとつも反論も謝罪も出来ずにいる。何より連絡はしないと約束を利一が反故にしたことが千世には信じられなかった。


「利一さんは、どこ?」

「彼はもう来ません」


 想像もしていなかった答えに信じられないと目で訴える。


「どういうこと?どうして?どうして来られないの?」

「来られないのではありません。もうあなたとは会わない。故郷には近づかない。それがこちらが提示した条件です」

「条件ですって?」

「内田さんから提示された条件は、駆け落ちの件を不問にすること、責めは一切を自分にあると話されました。それからこれからあなたの人生に価値観を押し付けないこと、これから旦那様がご用意された見合いを受けてもらいますが、あなたが納得しないものであれば強制することのないようにと。それが守られるならあなたを返すと仰ったのです」

「嘘よ、嘘、嘘だって言って、お願い、ねえ、梶山さん!」


 志津子は力ない手で梶山のスーツの裾を掴んだ。梶山は顔色変えずにじっと志津子を見下ろしている。


「帰りましょう」


 梶山は子供を諭すような口ぶりで志津子の手をとった。反抗する気力も奪われたような感覚を覚えた志津子はなすすべもなく虚脱した。

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