第34話 志津子の夫
―——え、泊まるの?
電話口で英恵が問う。
「うん。もう遅いし夜道は危ないから泊まって行けっていじいちゃんが言うんだもん。まだ六時だから平気だって言ったけど駄目だって強く言われちゃ、私断れないじゃん。施設の人…清子さん?もそう言うし」
あと志津子さんも、と続けようかと思ったが、利一と千世の過去を聞いた後では言いにくい。おじいちゃんの元カノだなんて親に言えるわけない。
―——そう、ね。お父さんもそうしなさいって言ってるわ。帰る時にまた連絡してね
「わかってるよ。うん、じゃあね」
通話を切ってため息をつく。まだ薄っすら空は明るい。まっすぐ帰れば全然余裕なのになともう一度ため息をついた。
昼から利一と志津子の昔話を延々と聴き続けて気付けば夕食時だった。清子がせっかくだからと夕食を用意してくれたので、祖父と孫と元カノという摩訶不思議な夕食を囲むことになってしまった。食べたら帰ろうと思っていたのに、利一に年頃の婦女子が夜道を歩くなんてとんでもないと窘められて今に至る。
「お電話済んだ?」
「あ、はい」
清子が玄関口に立っているさやかに声をかける。自動ドアを閉めるから中に入ってと言われた。手で自動ドアを閉めて下の鍵を回すとかちゃんと音がする。ただの戸締りなのに、さやかは世界と隔離されたような妙な気持になってぞわっと背筋が走った。
「それじゃあ、今日のお宿を案内するわね」
一階の冷蔵庫からペットボトルを二本取り出して清子は案内を始めた。四階にあがりここは女性ばかりの階なのよと清子が言った。一番奥の部屋に案内される。スタッフが泊まる部屋の向かい側だ。そこはゲストルームと書かれていた。家族が泊まることが出来る。六畳程の広さでベッドがふたつ並んでいた。旅館のように小さな冷蔵庫が備え付けられている。清子は冷蔵庫のスイッチを入れて、持っていた二本のペットボトルのお茶とジュースを中に入れた。
「好きに飲んで頂戴ね。トイレは通路を出て右、非常用の階段の向かい側にあるわ。ちょっと不便かもしれないけれどごめんね」
「いえ。お世話になります」
「それじゃあ、なにかあったら声を気兼ねなく声をかけてね。二階の自室にいるから」
清子は部屋を「おやすみなさい」と部屋を出た。一人になって少し力が抜けた。ベッドに背中を投げ出す。
晴子と出会う前の利一駆け落ちの話。
しかしあの頑固で生真面目な利一が駆け落ちなんて想像も出来なかった。昔晴子が言っていた。利一とは会社で出会い結婚したと。晴子の方が三歳年上の姐さん女房で、当時は行き遅れと揶揄されたが、おじいちゃんと出会うために結婚が遅くなったのよと笑っていたのを思い出す。そんな晴子の話を聞いて利一は恥ずかしいと言ったが嬉しそうだった。
晴子と出会う前なんだから不貞でもなんでもない。それなのにもやもやするのはどうしてだろう。話を反芻しても和江の姿が頭を掠める。枕に顔を押し付けて行き場のない感情を発散するようにうーっと唸って足をばたつかせた。
駆け落ちしてまで我を貫いた二人が、どうして別れてしまったのだろう。訳を聞いても利一は若さゆえの不甲斐なかった自分のせいと一点張りだった。志津子は肯定も否定もしなかった。利一は頑固者だけれど自分が原因で投げ出すような人ではないとさやかは思う。
眠れない。スマホで時間を確認するとまだ八時を廻った時刻だ。眠れるわけがない。お腹もすいた。此処のごはんは美味しいが、育ち盛りのさやかには圧倒的に量が少なかった。
近くにコンビニがないだろうか。適当におやつを買うためにドアを開けてもらおうと思い部屋を出る。通路にはオレンジ色の明かりがぼんやりと照らしている。通路の先に誰かがいた。気付かれないようにこっそり近づくとソファが置いてあり、そこに座っている志津子がいる。何をしてるんだろうと、こっそり様子を伺おうとしたとき、志津子が振り返った。
「さやかちゃん。眠れないの?」
志津子は優し気に声をかけた。
「ああ…まだ八時だもんね。若い子にはまだ早い時間よね。そうだ。ちょっとおいでなさいな」
すくっと立ち上がり、自室の前まで行くとさやかに手招きをする。利一とそう年齢は変らない。しゃんとした姿は年齢を感じさせない。さやかは「お邪魔します」と小声で呟いて足を踏み入れた。利一の部屋と同じ広さで置いてある家具も変わり映えはない。違うと言えばなんだか馴染のある香りがする。利一の部屋にはない洗濯機が置いてあった。その香りが洗剤の匂いだと理解する。
志津子はクローゼットを開いた。数える程の服がハンガーにかけられ、デッドスペースを活かすように引き出しが置いてある。一際目を惹いたものがあった。
「それ、楽器ですか?」
「ええ、そうよ。バイオリンよ」
「凄い。バイオリンが弾けるなんて、なんか格好いいですね」
「そんな褒められ方初めてだわ!若い人の感性って面白いのね」
志津子は嬉しそうに笑う。何がそんなに面白かったのか判らずさやかは首を捻った。
「見てみる?」
珍しい物でもないけれどと言おうとする前にさやかは目を輝かせて「良いんですか」と頷いた。志津子はバイオリンケースをベッドに置いて開いて見せた。さやかは感激の声をあげている。
「ふふふ、そういう顔が一番似ているのね」
「おじいちゃんですか?」
「ええ。昔バイオリンを見せたら内田さんも今のあなたみたいに目を輝かせていたわ」
志津子は一番端の細い弦を軽くはじく。空気を震わす音は物悲しく泣いているように聞こえる。
「あの頃は私も酷くふさぎ込んでしまったけれど、後にして思えばうまくいかない暗示だったのかもしれないわね」
今度は撫でるように隣の弦を弾いた。
「駆け落ちの時にどうしても持っていけなかったのが、このバイオリンなのよ。ずっと大切にして、片時も離さなかったバイオリンをあの時は手放したの。何故だかわかる?」
さやかは首を横に振る。
「親には頼れない環境で世間知らずの私が暮らしていくには過酷になることを覚悟していたわ。もしお金が尽きた時にバイオリンを手放してしまう気がしたの。それはどうしても避けたかった。内田さんが怪我をしたときに、真っ先にバイオリンのことを思い出したわ。そして持ってこなくて良かったと安堵した。私は二人の未来よりも自分の宝物を優先しちゃったのよ」
口元に笑みを絶やしたまま志津子の顔が歪んだ。
ずっと自分を責めていたのだろうか。後悔しているのだろうか。さやかは、すいっと視線をバイオリンに戻し気付かないふりをする。
「もしその日に戻れたら、バイオリンを持って行きますか?」
そう訊ねてすこし横目で志津子を見ると、元の表情に戻っていた。気付かれないようにそっと眉を開いた。
「そうねえ…きっと持って行かないわね」
「どうして?」
「今が不幸じゃないから、かしらね」
志津子は振り返って壁沿いに設置しているテーブルの方へ向いた。その視線を追うと写真たてが飾られている。唇を横に結び意志の強そうな目をしている男性が写っている。志津子は目を細めて柔らかくほほ笑んでいた。
「この人は夫なんだけれど」
そう言うと堪らずふふふと笑い声を漏らす。
「怖いお顔でしょう。この写真のように若い頃からむすっとしてて笑わない人だったわ。口数も少なくてね。何を考えているか判らなくて、それが嫌だったの。そんな時に出会ったのが内田さんだった。彼が昔呉服屋の下働きをしていたのは知ってる?」
聞いたこともない話だった。かぶりを振りながら好奇心は身体を前のめりにさせる。
「その頃の内田さんは真面目に懸命に働く好青年って感じだった。笑顔が眩しくて婚約者だった夫と比べることが多くなった。彼と話すのは楽しかったし結婚するならこういう人がいいなって」
「ん?ちょっと待ってください」
さやかは頭が混乱していた。この写真の男性が生涯ともにした夫であり、利一と出会った頃の婚約者だと合致するのに時間がかかる。
「この人、元婚約者ってことですか?」
志津子は眉をㇵの字にしころころ笑っていた。目元に涙を浮かべていた。
「不思議でしょう?駆け落ちして出戻った私には、次の結婚は難しいと両親は憤懣やるかたない気持ちを抱えていた。口では許すと言っても身内にスキャンダルがあるのは仕事にも支障があったのでしょうね。特に父が持って来た彼との見合いは、家とのつながりがより強固になるための良い話だった。あれより良い結婚はもうないと顔を合わす度に不満をぶつけていたわ。私自身、出戻り娘の嫁ぎ先なんて期待していなかった。そんな時にこの人から連絡を貰ったの。婚約破棄を取り消してくれって。彼を袖にした私を迎え入れたいって言ってくれたのよ」
「ご両親は赦してくれたんですか?」
「勿論、簡単に首を縦には振らなかったわ」
当然だと志津子は話す。彼にとっては家も彼自身も泥を塗られたと憤慨してもおかしくないことで、志津子が駆け落ちして家を出た時も大金を積んで許しを請うた。両親は有難い話ではあったが、多くの人を裏切った娘を嫁に出すのは示しがつかないと断りを入れた。もしかしたら事業がうまくいっていないから結婚の話を持って来たのかもしれないと懸念した両親は、金銭面の援助ならいつでもすると申し出た。しかし憶測は杞憂であり寧ろ順調だった。
何度断っても、一度でいいから会って欲しいと懇願された。そしてついに彼が家にまでやってきて頭をさげた。それまでは会うことも許さなかった両親がもう一度席を作ることを決めて志津子を彼に合わせることにした。仲人をたてない二度目のお見合いは異様だった。志津子の両親だけでなく、彼の両親も始終眉を顰めていた。決して結婚を許していたわけではなかった。
「その席でこの人が言ったの。初めて逢った時からずっと慕っていたって、ね」
駆け落ちされた時はショックで寝込むほどだったと彼は言った。志津子が自分との結婚に乗り気でなかったことも知っていたが見て見ぬふりを続けた。結婚をすれば変わってくれると思っていたそうだ。自分を選んで貰えなかったのは、貪欲にならず婚約者の肩書に甘えていたからだと考えた。態度や言葉で示さなかったことをずっと後悔していた。もう忘れてしまおうと必死に自分に言い聞かせていたけれど、元婚約者が出戻ったと知ったらまた情熱が蘇り、この機を逃してはいけないと思うといても経っても居られなくなったそうだ。
「彼の熱意に押されて両家とも結婚を許してくれたの。でも私はそれでもうんと言えなかったわ」
「どうして?」
「それは…」
口を噤んだ。笑顔が消え哀愁の色が滲む。志津子は目を瞑り思い返していた。
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