第33話 無力感

 仕事を終え家に帰る。いつものように極力音をたてないようにドアを開ける。一昨日までは電気のつかない暗がりにも仄かなぬくもりがあった。布団にくるまって安らかな寝息をたてている志津子がいたからである。今は人の気配がしない暗闇に飲まれそうな部屋に息が詰まりそうだった。ちゃぶ台には昨日書き残したメモがそのまま残っていた。メモを丸めてごみ箱に捨ててちゃぶ台を壁に立てかける。自分の布団を取り出し敷いた。狭い六畳の部屋がやけに広く感じた。寝間着はまだ窓際にハンガーにかけられたままだった。志津子がクリーニング店で分けてもらったものだ。取り外して寝間着に着替えてから布団に潜りこんだ。

 目が覚めたら全てが夢だったらいいのに。途方もない現実逃避が頭をもたげる。

 そんな願いは当然のように叶わずあっという間に朝になって、志津子のいない現実が視界に映った。よたよたと起き上がり、朝ごはんの準備に取り掛かる。狭い台所だというのに米びつの場所すらどこにあるか判らなかった。見つけた頃には作る気力もわかず敷きっぱなしの布団に戻る。じっとしていても仕方がないと、身支度だけして産婦人病院へと向かった。


 利一が病院に着いたときにはすでに患者が数名診察室のソファに座り、呼ばれるのを待っている。今にも生まれそうな大きな腹を抱えている女性、子供を数名連れている妊婦もいる。騒ぐ子供に「静かにしなさい」と叱咤していた。


「あの…内田ですけど」


 若い看護婦が、そのまま二階へ行くように促した。利一は軽く頭を下げて千世がいる病室へと向かう。病室のドアは開いていた。中を覗くと変わらず志津子だけがベッドを使っておりがらんとした部屋はドアを一つ隔てて別世界のように静まり返っている。


「おはようございます」


 恐る恐る声をかけると、一昨日の看護婦が利一に気付き挨拶を返した。


「今また眠られたところなんですよ」


 目線を志津子に移すと一昨日と同じようにぐっすりと眠っている。


「そうですか。容態はどうですか」

「夜はよく眠れなかったようで、朝食を少しだけ召し上がったら眠ってしまいました」


 朝食の食べ差しがサイドテーブルに置かれている。殆ど手つかずの状態だった。


「下に居ますので何かあればそれで呼んでください」


 看護婦は枕元のナースコールを指差した。頭だけでお辞儀をすると部屋を出て行った。

 利一はふーっと息を吐いて丸椅子に座り志津子のおでこにかかった乱れた前髪をとかしながら撫でる。志津子の顔は変らず青白かった。


「…ん」


 志津子は何か呟いた。声なのか息なのかわからない程小さかった。利一は起きたのかと思い「志津」と優しく声をかける。しかし目を開けなかった。


「ごめ…な…い」


 目覚めないまま涙があふれて目尻から枕へぽたぽたと落ちシミを作った。気にするなというのも無理はない。利一だってそうだ。誰にでも起こるからなんだというんだ。赤子が死んだのは、守れなかったのは自分ではないのか。どんなに優しい声をかけられても葛藤は消えなかった。


「ごめんな…い」

「おまえのせいじゃない、おまえは悪くないんだ」


 それでも志津子のうわごとにかける言葉は他の人と同じような慰めの言葉しか思いつかなかった。不甲斐なさが一層利一の心を追い詰めていく。


「おと…さ…」


 絞り出した声に利一はすっと体の体温が消えるような感覚を覚えた。

 俺はなんてことをしてしまったのだろう。

 故郷から連れ出して、貧しい生活を余儀なくさせ、結果はどうだ。幸せにするどころか、こんな目に遭わせてしまったのは俺のせいじゃないのか?

 誰もが言った「おまえのせいじゃない」とかけられた優しい言葉が嘘だと囁く。首を振って疑念を振り払っても罪の意識が離れようとしない。


 利一は病院を飛び出した。何も耳に入ってこなかった。家に帰ってあの日以来使っていなかった大きな鞄を引っ張り出す。底にある茶封筒を取り出した。そこから一枚の紙を取り出して家を出る。速足で不動産屋へ向かった。


「内田さん、どうしたの」


と驚いて心配そうに言う佐渡川の声に被せて「電話貸してくれませんか」と小銭をカウンターに置いて言った。ただならぬ様子に佐渡川は「いいけど」と黒電話を差し出す。

 利一はメモを見て、間違えないようにダイヤルをひとつひとつ確認しながら回した。

 電話口の向こうには女性がいた。


「内田と申します。梶山さんに繋いでください」

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