第32話 足元が暗い

「無理だよ」


 飲食店のバイト先の店長にお金が借りられないか交渉してみても、有無を言わさずばっさり断られる。手あたり次第頭をさげたが一様に断られた。気の毒だけどと胸を痛めてくれる人もいれば、理由を聞く前から首を横に振る人もいた。


 今日の明け方、志津子は目を覚ました。頭がぼんやりしていたのか、自分に何が起こったのかわかっていない様子だった。利一が不安そうに顔を覗かせ声をかけると、みるみる顔を崩しわあわあと鳴き始めた。忘れてしまえたらいっそ楽だろうにと考えてしまう利一は自分のずるさに辟易しそうである。


「利一さん…ごめんなさい」


 昨日も利一が来るまで酷く泣いたのだろう。真っ赤な目からとめどなく涙があふれて嗚咽を漏らした。利一は抱き寄せて「志津のせいじゃない」と言うのが精いっぱいだった。他人からどんなに誰のせいでもないと言われても、頭にあるのは病院にも連れて行ってやれない不甲斐なさだと自覚せざるを得なかったのである。


「暫く入院だって。俺は、その、仕事、行かなきゃいけないけれど、此処でゆっくりして。夕方また様子見に来るから」


 傍にいてやりたかった。それでも看護婦から聞いた入院費と治療費の値段を見て、そうは言ってられない。とにかく稼いでこなくてはと必死だった。


「内田君、昨日はどうしたんだ」


 キャバレーに着いてすぐに、無断欠勤をしたことを店長に謝罪に行った。店長は利一の姿を見てすぐに詰め寄った。何かあったのかと、仕事が終わった後にわざわざ家に寄ってくれたそうだ。しかしドアを叩いても声をかけても返事がないので心配していたと話す。最初は怒っていたが事情を話すと次第に同情心を見せる。


「そうか…それは何と言うか…」


 店長は口ごもって頭を掻いた。


「奥さんの体調はどうなんだ」

「経過観察というところです。二、三日から一週間程入院が必要だそうで…」

「そう、か」

「店長、言いにくいんですけどお金を貸してもらえませんか」


 遠回しに言っても意味がないと思い隠すことなく尋ねる。店長は憐れんだ手前、断ることもできず言葉に詰まった。代わりに息を吐くように「あー…」と声を漏らす。


「なんとかしてやりたいけどな…店長なんて名ばかりで店の金を俺の一存でどうこうしてやれるわけじゃないんだ」


 店長が何を言わんとしているかは利一にも解る。利一自身、この店が堅気の店ではないことを承知で働いていた。店長のポケットマネーから出すのも無理な話だ。彼にも家族がいて、簡単に貸せるとは言えないのだろう。


「悪いな」


 謝ると居た堪れなくなって店長は利一の視界から消えるように部屋を出た。利一はぎゅと目を瞑った。悔しさから溢れる涙をぐっと堪えて首をぶんぶんと横に振る。まだ諦められるかとホールへと向かった。


 キャストが入店する時間になると、昨日も店に入っていた女性が利一に声をかける。事情は話せなかったが心配してくれたことへのお礼と謝罪を述べて準備に取り掛かった。


「ああ、今日は来ていたのね」


 アパレル業界に繋いでくれると言ってくれたキャストがホールに入って来た。


「昨日は急に休んでしまいすみませんでした」


 利一が頭をさげると「いいのよ」と諭した。


「この業界では珍しくないから」


 出入りが激しいところだからと続けて話す。短期間しか働かない子もいれば、仕事が厭になって急に来なくなる子もいる。引き抜かれることも、ねと艶めかしい視線を準備に追われているボーイをせっつく店長に向けて言った。


「あのお客さん昨日来ていました?」

「いいえ。そろそろかなとは思うんだけど」

「そうですか…」

「どうしたの?なにかあった?」


 利一は昨日あったことを正直に話した。すぐにお金が入用だということも含めて。すると彼女はそう…と息を吐くように呟く。


「それを彼にも話すつもり?」

「出来ることなら、正直に話してわかってもらいたいです」

「辞めた方がいいわよ」

「え?」

「事情は気の毒だと思うけれど、働く前から前払いをせがんでも良い印象はしないでしょうね」


 利一はぎゅっと眉根を寄せた。


「まあ…好きにしたら」

「助けてくれませんか」


 無理なお願いだと判っていても頭を下げずにはいられなかった。


「悪いけど、出来ないわ」

「どうしてもですか」

「ええ。自分の力で生きていけないのなら、そこまでと覚悟をすることね。俗世間でも世の中には親切心から手を貸してくれる人もいるかもしれないけれどそんなのほんの一握りもないわ。そんな調子でこんな夜の国でそんな弱音見せてごらんなさい。あなたなんてあっという間に餌食になってしまうわよ」


「そういう弱音は本当に信頼できる人の前でしか零しちゃだめよ」


 目の前が真っ暗になった。人の優しさを期待したせいか、それとも自分の力がないせいか、間違いなく後者だ。それを誰も助けてくれないと嘆いてしまう己の弱さが悔しかった。

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