第31話 赤い夕暮れ
今朝の志津子の様子が気になってキャバレーに出社する前に家に戻ることにした。出かけた後に思い返すとあの顔は痛みに耐えるときの表情だったように思う。仕事は抜けられないが、せめて様子を見て、必要なら病院に駆け込もうと考えていた。何もなければそれに越したことはない。こんな時間に帰ることなんて滅多にないからちょっと驚かせようと思ってと惚ければいい。
夕焼けで赤く染まるアパートがやけに静かだった。鉄の階段を駆け上り、ドアの鍵穴に鍵を差す。
「ただいま」
返事がない。しんと静まり返っている。見渡すことも出来ないほど狭い家だ。一目で誰もいないことが解る。夕方の五時過ぎだ。買物にでかけているのだろうか。いつも使っている買い物かごがなかった。
出かけているならそれなりに元気なんだろうと少し気が抜けた。それでも心のざわめきは消えない。志津子の帰りを待つかと考えたが次の仕事に遅れてしまう。適当なメモに一度帰って来た旨を書き残して家を出た。
商店街を通って駅に向かっていると髪を振り乱して駆け寄ってくる女性がいた。
「内田さん!内田さん!」
佐渡川だった。
「良かった、見つかって!」
「ちょ、ちょっと、どうかしたんですか?」
息があがっている。話そうと思ってもなかなか声にならず代わりに大きく咳き込んだ。
「どうかじゃないのよ。大変なの、あんたの奥さんが…」
「志津子に何かあったんですか」
「昼に商店街で倒れて病院に運ばれたのよ」
さーっと血の気が引いた。やはり体調が悪かったんだ。
「どこの病院ですか」
「産婦人科よ。行ったことくらいあるでしょう」
利一は肯定出来なかった。病院に行くように言ってはいたものの、極力お金を使うことを拒んでいた志津子は数える程しか行っていない。利一も一度も付きそわなかった。
利一は産婦人科の場所を聞こうとしたら、案内する方が早いとまた走り出した。
産婦人科につくと看護師が診察室に案内した。そこに居たのは深刻な顔をした女医だった。碌に挨拶をすることなく、立ったまま志津子の容態を訊ねると、女医はまずは座るように促した。
「大変お伝えしにくいのですが」
女医の顔は悲壮感というよりは石のように表情を強張らせていた。そのまま淡々と志津子の容態を話し始めた。
「赤子は、もういないってことですか」
「気を落とさずにとは言えませんが、安定期に入る前に流れることは珍しいことではありません。暫くは奥様の体調と精神面を考慮して入院なさってください」
「わ、かりました」
こんな時でも金銭面の問題が顔を出す。そうはいっていられないが、見ないふりも出来ない。
「奥様にご家族のことを伺ったのですが、連絡が取れる人はいないと仰るんです。どうにかなりませんか?」
「と、言うと?」
「ご主人が支えていく必要があるのは勿論ですが、精神的にお辛いときです。ご実家があるのであればそちらで療養することもご検討なさってはいかがでしょう」
利一が何も答えなかったので女医は察したのか問うことを諦めたのかはわからないが「ご検討を」とだけ言って病室に案内するようにと看護婦に伝えた。
二階の病室に入る。ベッドが八つ向かい合わせに並んでいる。窓から二番目のベッドだけカーテンで仕切られておりそこに志津子は眠っていた。看護婦はカーテンをあけて点滴の調整をして部屋を後にした。
適当に置いてある丸椅子を引き摺って志津子の傍に置いて座った。血の気がひき青白い顔をしている。恐る恐る頬に触れるとほのかにあったかい。傍に寄って初めてすうすうと寝息をたてていることがわかった。
生きている。志津子だけでも生きていてくれた。
志津子は生きているけれど赤子が死んだ。生まれる前に死んでしまった。
一気に力が抜けた。力が抜けると涙が零れた。
耳の奥でごおごおと音が鳴っている気がする。無力感が押し寄せる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。祝福されなかった二人の門出を阻もうとしているのか。それとも罰か。想像していた未来への道が足元から崩れていく感覚がする。
ドアを叩く音に顔をあげると佐渡川が入口で立っていた。入るよと言い利一に近づき肩に手を置いた。
「今日は病院に泊まっていくかい?」
利一はこくりと頷く。志津子が起きた時に傍にいてやりたかった。
「わかった。先生にもそう伝えるよ」
奥さんは志津子の青い顔をじっと見つめた。
「こんないい子がこんな思いしなくちゃいけないなんて、神様は酷い奴だね。この子、赤ちゃんが元気に生まれるようにって安くて栄養があるものを食べるために、商店街の奥さん方にレシピを聞いて回っていたんだよ」
利一には心当たりがあった。志津子はよく新しいレシピを教わったと朝食時に嬉しそうに話していた。元気な赤ちゃんを産むからね、頑張るからねと話す志津子の顔が焼き付いている。
「流産は誰のせいでもないの。成長できなかった子供のせいでも、奥さんのせいでも、ましてやあんたのせいでもない。でも向き合って受け止めて前に進まなきゃいけない。わかる?」
利一は俯いた。理解が出来ないわけではなく、この事実を受け止めきることも、先へと進める自信がなかった。
「奥さんの体のこと、あんただけで支えていけるのかい?簡単なことじゃないよ。こ厳しい事をいうけれど、この子の体はこの子だけのものじゃないし、あんたと二人だけのものじゃない。この子の親御さんに顔向けできないような幸せを手に入れられないのなら駆け落ちなんてやめなさい。あんたたちは良い子だ。それはよくわかってる。でも思っているよりもずっと子供だよ。頼れる親がいるのなら連絡しなさい」
肩をぽんぽんと二回叩いてぎゅっと掴まれる。優しい重みだった。そして残酷でもあった。子供だと指摘されて反論ひとつできない程に自分が子供だと自覚させられた。
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