第30話 食つなぐために

 怪我から二週間は松葉杖をつきながら利一は必死に次の仕事を探した。思ったようにはいかずなかなか仕事が決まらなかった。第一印象の印象が良くなかった。対面してもまず目に入る松葉杖を見て、すぐに働けるのかと聞かれたり顔を顰めたりされる。

 貯金がないわけではないが安心できる金額ではなかった。一か月、二か月は崩しながら生活するしかないかと思案するが、志津子の腹を見ては数か月後には生まれてくる赤子にかかる金銭を思うと甘えてはいられなかった。

 志津子は「大丈夫、ゆっくり探しましょう」と笑顔を作って言ってくれた。無理をしているのは明らかだった。ただでさえ初めての妊娠である。頼れるはずの親にも連絡は出来ず、利一は昼間は就職活動中で家に一人きりの時間が長くなるので心細いはずである。更につわりはなかなかおさまらなかった。嘔吐いては食欲がないと言う。冗談めいて「食費が浮くね」と笑っていたが、利一は気が気でない。栄養のあるものを食べさせねばと気ばかり急いて奮闘しても、なかなか職が決まらなかった。一日中歩きまわるし、病院に行けないため骨折は治りも悪かった。

 就職先が見つからない間、繋ぎにと飲食店の皿洗いのバイトを始めた。松葉杖は手放した。痛みがなくなったわけではない。それでもネックになるのなら使わない方がマシだった。徐々に松葉杖のない生活にも慣れていき、これなら夜も働けると思い、キャバレーのボーイとして夜のバイトも始めた。時給は良かったが肉体的にも精神的にも利一には性にあわなかった。店内の清掃買い出しなど雑用から始まり、店が開くとウエイター業務をこなす。ホールを満たしている酒の匂い、嗅ぎ慣れたおしろいを隠すほどの香水の匂い、薄暗い中での男性の下品な笑い声と女性の甘ったるい声、どれもが厭でたまらない。時にはトラブルに巻き込まれ殴られることもあった。その中で腰を低くし、笑顔を絶やさずいることに努めた。

 帰りは二時を廻っていた。住んでいるアパートの最寄りの駅から二駅を歩いて帰った。帰るとすぐに着替えてすでに敷いてある布団に体を投げ出して眠りに落ちる。昼の仕事が始まる前までひたすら眠った。

 体に染みついた夜の匂いを持ち込むのは抵抗があったが、志津子は嫌な顔ひとつしなかった。

 その日もいつもと変わらず九時頃に目を覚ますと、石鹸の柔らかい匂いと懐かしい歌を口ずさむ優しい声がする。志津子は三和土にたらいを置いて脱ぎ散らかした利一の服を洗っていた。

 身体を起こした利一に気付いて千世が振り返り「おはよう」と声をかける。いつもの笑顔だ。秋の日差しが差し込む部屋の中はぽかぽかと温かい。湧き上がる愛しさが心を乱した。


「どうしたの?」


 どんな顔をしていたのだろう。志津子は利一の心の機微を察してか尋ねてきた。


「なんでもないよ」


 辛さが消えたわけじゃない。それでも幸せだなと思えるのは頑張れる理由があるからだと感謝した。自然と零れる笑みに志津子は安心したのかそれ以上何も訊かなかった。


 とはいえ夜の仕事をいつまでも続けてくつもりはない。とにかく新たな仕事を見つけねばと思う反面、時間を作るのが難しくなっていた。隙間時間をみつけてはあちこち応募していた。色よい返事がなかなか返ってこない。バイト先で新たな仕事を探していると掛け合ってはいても、首を縦に振る人は見つからなかった。そのため夜の仕事から足を洗うことが出来ずにいた。


「内田君、ちょっといいかしら」


 キャストの一人が声をかけて来た。店の中でも人気のキャストである。

 相変わらずキャバレーの空気には馴染めなかったが、持ち前の真面目さで仕事場ではその働きを認められるようになっていた。呉服屋時代の下働きが役に立っており、丁寧な仕事、柔らかな接客が目を惹いた。ボーイ仲間からもキャストからも評判が良くなっていた。


「なんでしょうか?」

「アパレルの仕事を探してるって訊いたんだけど」


 太陽が昇っているうちに働いて安定して稼げる仕事ならどんな仕事でも良いと話していた。その中でもし出来ることなら呉服屋での経験を活かしたいと言っていた。


「お客さんの中にね、アパレル業界の人がいるの。その方が今新しい人材を探してるんですって。乗り気なら繋ぐわよ」


 待ち望んでいた話に利一は食らいついた。次の来店時に声をかけることを約束してもらった。漸く見えた道筋に利一は早い安堵を覚えた。

 次の日の朝その話を志津子にすると、同じように喜んでくれた。


「そう、良かったわね。一番やりたかった仕事なんでしょう」

「まだどういう仕事が出来るかはわからないけれどね。仕事がもらえるだけでもありがたいよ」


 茶碗の中のおかゆに目を落とす。普通に炊くのをやめてもう何か月経つだろう。これで志津子に、そして生まれてくる子供にまともなご飯を食べさせてやれる。

 顔を綻ばせていた志津子が突如顔を顰めた。


「どうした?」

「なんでもないわ」


 口端を上にあげて無理に笑ってみせた。


「体調でも悪いのか?」

「そんなんじゃないわよ。心配しないで」

「しかし…」

「もうでかける時間じゃない?急がなくちゃ」


 食べ終わった食器を重ねて立ち上がりシンクに持って洗い始めた。

 時計を見ると確かに出かける時間が迫っていた。急かされた利一は気のせいかと思いながら志津子の背中を見る。


「無理はするなよ。なにかあればすぐに病院に行くんだぞ」

「ええ。気をつけていってらっしゃい」


 違和感を覚えながら出かけたことを後悔するのは昼の仕事を終えて帰った時だった。

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