第29話 崩れた橋の前で立ちすくむ
タクシーが病院の前に停まると志津子はすぐに飛び降りた。お金を払うことなんてすっかり忘れて仙田が「ちょっと、奥さん!待ってください」と声をかけるのも聴く前にすっ飛んで行った。ちっと舌打ちをして後ろポケットに入れた折り畳みの財布を取り出し皺皺のお札を出してお釣りを受け取った。
病院の重いガラス戸を押し開けて中へ入るとざわついていた。
「夫が運ばれたはずなんです。怪我をして」
「はいはい。それはわかったんですよ。その旦那さんのお名前は?」
すっかりパニックにとりつかれてしまった志津子は涙声で訴えるばかりで相手の言葉が耳に入っていない様子だった。受付の中年の女性はため息交じりで諭している。
「奥さん、こっちですよ」
仙田は志津子の両肩を掴みカウンターから引きはがして通路奥へと進んだ。階段を上がる頃には手を離し先導すると志津子は大人しくついてくる。三階まで上がると一気にしんと静まり返っている。靴音がやけに耳に響いた。等間隔に並んだ部屋のひとつを仙田が叩くと中から「どうぞ」と声がする。志津子はその声に臥せていた顔をあげた。
「奥さん連れてきましたよっと」
ドアを開けて中に入ると後ろにいた志津子は一目散にベッドに駆け寄った。
「利一さん!」
「し、志津…」
志津子はペタペタと利一の顔や肩、腕と下へと触っていく。利一は同僚を前に恥ずかしさから慌てて志津子を引き離した。
「落ち着いて、志津子、大丈夫だから」
「ごめんなさい。怪我したって聞いて私動揺して…」
いつもおっとりとした口調の志津子が聞いたことのない早口で話す。声はどんどん小さくなっていた。利一は千世の腕に触れて「すまない」と謝ると漸く志津子は大きく息をした。少し落ち着きを取り戻したようだった。
利一曰く建設中の足場から足を滑らせて落ちたという。三階位の高さだった。結果左足が折れた。骨折で済んだとはいえ打ち所が悪ければ死んでいたかもしれなかったのだ。不幸中の幸いだったと話す。それを聞いて志津子はほっと息をついた。
「ちょっといいかね」
部屋のソファーにどっしりと身を鎮めて待っていた厳つい顔の男性が口を開いた。
「すみません。親方。志津子、こちらいつもお世話になっている栗城さんだ」
「主人がお世話になっております」
志津子は慌てて頭をさげると栗城は「いやいや」と手で頭をあげるように振った。
「仙田君悪かったね。戻ってもらっていいよ」
「うす」
短く返事をして部屋を出ようとしたところを引き返す。
「あの…言いにくいんですけど」
首の後ろを擦りながら目を合わせずに志津子に近づいた。
「タクシー代出してもらえねえっすか。うちもカツカツで困ってるんすよ」
志津子は「いけない」とハンドバッグからお財布を出した。正気を取り戻したのか恥ずかしさから顔を赤くしている。
「おいくらでしたか」
「えっと千四百円ですね」
領収書を見せた。志津子は綺麗な千円札を二枚差し出した。
「ご迷惑をおかけしました。碌に挨拶も出来ずすみません。少しですが取っておいてください」
「え、でも…」
仙田は利一に目配せをする。受け取りたいのだと察した利一は「受け取ってください」と言うと「なんかすんませんね」と領収書と交換する。口端に本音が滲んでいた。
「それじゃあ、お大事に」
何度もぺこぺこと頭を下げて部屋を後にした。
ふうとあからさまに声にして大きく息を吐いたのは栗城だ。その声に利一と志津子は栗城の顔を見る。
「一応確認しておくが、いっさんが言っていた通り、今回の事故はお前が足を滑らせたことによる不注意だったってことで間違いないんだな」
いっさんは一木と言う古くからいるベテランの職人である。
「はい。間違いないです」
「そうか」
栗城はズボンのポケットから煙草の箱を取り出して一本出そうとする。「ああ…病院は駄目か」と握った箱をまたポケットにねじ込んだ。苛立った様子でつま先を何度も床に打ち付けた。
「奥さん、今何か月なんだ」
質問の意図がわからず目を泳がせながら「え、え」とどもった。
「四か月ですけど」
「そうか」
またふーっと長い息を吐く。
「大変な時期だろう。もう何十年も前になるが家内もつわりやらなんやらで大変だった。元々気性の激しい女ってせいもあるのか、まあ、その辺は察してくれや」
「はあ…」
「内田くんの奥さんだと暴れるってことはァ、ないだろうけどな」
がははと笑う。志津子はどう反応して良いか判らず愛想笑いを浮かべた。ひとしきり笑った後栗城はまた息を吐き、厳つい顔を顰めた。
「そんな時期に酷なことを言うんだけれどな、今日限りで辞めてもらうことになりそうだ」
「そんな!どうしてですか」
志津子はつい声を荒げる。しかし利一は反論することすらしなかった。
「さっき先生に話をきいたが、折れた左足、治るのに一か月はかかると言われたよ。その間も、その後も通院が必要だ。でもな、こいつには保険が効かないんだ」
志津子は押し黙った。栗城が何を言いたいか判ったからである。利一は年齢を詐称して雇ってもらっていた。栗城もそれを見て見ぬふりをしていた。
「病院に通えないならまともな治療も出来ない。元の生活に戻るのだって難しくなるだろう。とはいえこっちで病院代を出してやる義理はない。わかるな」
自由診療扱いになるとどれほどの金がかかるか利一には想像もつかない。それを払ってくれと頼むのも気が引ける。雇ってもらってるだけでもありがたいのだと思った。
「とはいえ此処で見捨てるのも気が引ける。今日の病院代と一か月余分の生活費位は退職金として出してやる。その後のことはてめぇらでなんとかしてくれよ」
ドアを開けて立ち止まる。振り返ることなく、悪く思うな、こっちもギリギリでやってるんだと言い残して部屋を出た。
新しい家族の明るい生活を前に急に橋を落とされた気分だった。今になって噴き出した汗がひやりと利一の背筋を伝う。
「こんなことになってすまない」
「大丈夫よ。私も働くわ」
小さな命に触れるようにお腹に手を当てた。これまで働いたことのない志津子に不安がないわけがない。それでもこの子のためならなんだってできる。不確かな自信が沸き上がった。
「いや、駄目だ」
利一は首を横に振った。立ったままの志津子に座るようにとベッドをぽんぽんと叩く。言われたままにおずおずと座って利一に向かい合った。利一は志津子の膨らみかけのおなかに手をあてる。そして志津子の頭を胸に抱き寄せた。
「栗城さんも言ってただろう。今は大事な時だ。無理をしちゃいけない。足が使えなくなっても別の仕事があるさ。必ず探してくるから心配するな」
志津子は利一の優しさが嬉しくもありどこか寂しくもあった。
私にもなにか出来ればいいのに。無力さが、世間知らずな己が悔しかった。
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