第28話 うまくはいかない
新しい生活が始まって、利一は年末年始なんて関係なくすぐに仕事探しにとりかかった。暫くは貯えで生活出来たが、大家との約束を果たすためだ。無論それだけではない。此処まで来たら自分の力で志津子を支えていく責任と覚悟が奮い立たせた。
初めはこれまでの経験を活かそうと近いところから呉服屋を当たってみたが人手が足りていると断られる。接客業を必要とする商店街でも募集は多くなかった。あっても主婦の片手間といったところで二人で生活するには足りない。
すぐに雇い入れがみつかったのは土木業だった。背はあったが色白でひょろっとした体型に雇い主も渋ったが、人手不足だったことですぐに雇ってもらえた。これまで経験のない体を使う仕事は利一には過酷だった。
最初の三か月は体力との闘いだった。雇われて一週間で身体は悲鳴をあげた。薬を買うのは勿体ないので毎晩志津子がマッサージを施した。これではいけないと、休日も体を鍛えるためのランニングや筋力トレーニングに励んだ。一朝一夕にどうこうなるわけではなかったが、二か月目に入る頃には慣れたこともあり楽になった気がする。
給料は決して多くはなかったが、二人で生活をするにはなんとか事足りた。志津子も最初こそ物価の高さに困惑しながら考え得る節約を心がけていた。しかしこれまでしてきた生活から抜け出すのに少し時間がかかった。新婚生活が始まったと浮かれていたところもあるのだろう。最初の一か月は出るものが多いのは仕方がない。生活用品を買いそろえ、先の家賃を払うことで利一の貯金は底が見えた。二か月目は初任給から生活費を渡した。家計簿はつけていたようだが、利一が用意した生活費とは別に持参したお金を少しずつ削って使っていた。それでは生活出来ないと気付いたのが二か月経った頃だった。志津子が利一に頭を下げたことで発覚した。家計簿を見ると大きな贅沢はしていなかったが、日々の食費がかさんでいた。志津子曰く頑張っている利一のために良い物を沢山食べさせようとしていたのである。気持ちを汲んで、出来る範囲で良いと言い聞かせた。
それからの志津子は変った。食事は確かに少し質素になったが、節約料理に熱中した。佐渡川から学んだり、彼女の伝手で奥様同士の交流を深めて庶民の生活を学んでいた。
貯金をするのは難しかったが、おかげで大家との約束は反故にせず済んだのである。
引越してから半年が経ち蒸し暑い夏の日を迎えようとしていた。
利一は肌は焼け、筋肉が程よくつき、多少精悍さが滲むようになっていた。食事は相変わらず質素だったが、少しでも栄養のあるものをと志津子が知恵と心を砕いて尽くしてくれたおかげで病気もせずに済んでいる。
「利一さん」
夕食が終え片付けも済んだ頃志津子は正座をして改まった。利一は質屋で買った携帯ラジオをつけ、一冊だけ持って来た本を開いていた。
「どうした」
「お話があります」
目を伏せて深刻な顔をする志津子に何かあったのかと利一はラジオを消して背筋を伸ばす。それなりに順調な生活だと自負していてもまだ半年だ。安定しているとはいえない。もしくは小野寺の親にみつかったのだろうか。志津子は伏せていた目をゆっくりあげた。
「赤ちゃんが、できました」
利一はぽかんとする。言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
赤ちゃんができた?誰の?僕たちの?
「三か月だって。喜んでくれる?」
なんの反応も示さない利一に志津子は恐々と訊ねる。遅れてあらゆる感情がこみ上げてきた。言葉には表せなかった。利一は思いっきり抱きしめた。
「当り前じゃないか」
感じたことのない気持ちに溢れていた。それは笑顔に、そして涙となった。これが愛しいのだと利一は噛みしめていた。
それから利一は更に気合を入れて働くようになった。上司や同僚も祝福してくれた。これからが大変だと釘を刺されてもそれがやる気に繋がった。仕事の辛さも気にならなくなっていた。何にも代えがたい家族が増えることに、それも血の繋がった子供が出来たことがこれまでにない喜びに満たされていた。守るものが増えるプレッシャーは同時に幸せなのだと実感した。
不幸などそこにはないはずだった。あるはずがなかったのだ。しかし試練は否応なしに二人に突きつけて来た。
八月に差し掛かる日、蝉の大合唱の中、必死にドアを叩く音に志津子はひやりとした。ただならぬ様子にひやりと汗が滲む。まだ大きくないお腹に「心配ないからね」と声をかけた。
「奥さん!内田さんの奥さんいませんか!?」
ドアの向こうから聞き覚えのない声がした。
「どちらさまでしょうか」
「同僚の仙田です」
志津子はすぐにドアを開けた。
「大変なんです。内田が、旦那さんが怪我をして病院に運ばれました」
「今、なんと?」
息がとまるような感覚を覚えた。どういうことかと目が泳ぐ。
「今タクシーつけてますんで、すぐに乗ってください」
「わ、わかりました。すぐに準備しますので」
志津子はドアを開けたまま中に戻った。震える手で財布をとりハンドバッグに入れる。家の鍵を閉める時にも手が震えて、鍵穴の外にばかり先が当たった。
「俺がやりますよ」
仙田は志津子から鍵を受け取り代わりに閉めた。返して貰っても鞄に入れずにぎゅっと握り締めてタクシーに乗り込んだ。
「一体何があったんですか」
タクシーの中で堪らず訊ねると、仙田はうーんと口に出して考え込んでから一度息を吸い答えた。
「俺は現場を見てたわけじゃないんで、はっきりとはわからないんですが、どうやら足を滑らせて落ちたと聞きました。すぐに病院に運ばれて処置を受けているところです」
「そんな…」
志津子の悲痛な声に仙田は何も声をかけなかった。かけられなかった。同僚が不慮の怪我をしたのは一度や二度ではなかった。軽度の時もあったし重症の時もあった。つまり復帰した者もいるし出来なかった者がいるということだ。今後の生活に必ず響く。だからこそ軽率に「大丈夫」と言えなかったのである。
出来ることはタクシーの運転手に急かすことしか出来なかった。
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