第27話 不動産屋

早朝に降り立つ都会は夜行列車に乗り換え時の駅の何倍も人が多く、利一は眩暈がしそうだった。歩き方ひとつとっても忙しなく人の波に乗るのも一苦労だった。人前で手を繋ぐのは気恥ずかしいと躊躇っていたが、この人混みでは繋いでいないとすぐにはぐれてしまいそうだった。知らない土地でそうなっては困るとしっかりと手を握り締めた。

 駅前の地図案内板で今いる場所と大まかな地図をメモ帳に記し、一番近い不動産屋へと向かう。途中道に迷い人に声をかけるもなかなか止まってくれない。都会は冷たいなんてどこかで聞いたこともあるが本当なんだとがっかりする。

 途中で目に入った食堂で腹を満たした。そういえば昨夜から何も食べていない。一番安い目玉焼き定食がやけに身に沁みた。「おいしいね」と嬉しそうに食べる志津子の姿も可愛らしいなと思わず顔が綻ぶ。

 元気を取り戻したところで探索を再開する。歩き回って見つけた交番に駆け込んだ。親切にも新たに地図を書いてもらい、夫婦で営んでいる小さな不動産屋に辿り着いたのはお昼前だった。ビルから飛びでるようにくっついた分厚い両面の看板には『佐渡川不動産』と書かれている。


「どういった物件をお探しで?」


 快く出迎えてくれた中年の女性———佐渡川がにこやかに問いかける。まだ都会の生活を想像も出来なかった利一は答えに困った。これから仕事を探して生活していくのだからあまり家賃の高いところでは困る。とはいえ昼間は志津子が一人で過ごす家ならば治安の良いところでないといけない。口ごもっていると向こうから切り出した。


「若いご夫婦ならこういうところなど如何でしょうか」


 他人から夫婦と言われて二人は顔を見合わせた。志津子ははにかんで利一は赤面して恥ずかしそうに俯く。あまりの初々しさに女性は「あらあら」から始まり「若いっていいわね」と大袈裟に笑った。


 候補に見せて貰ったのは流行りの集合住宅だった。集合住宅に興味をそそられて提示された紙を覗き込んだ。見たことのない値段に目玉が飛び出そうになる。


「ちょっと…高いですね」

「あら、そうでした?ごめんなさい。奥様の身なりが良いから、どこか良いところのお嬢さんかと思いして…」


志津子が抱えているコートとハンドバッグに目をやった。


「生活に便利な場所で比較的安価な平屋かアパートはありませんか」

「そうねぇ」


 指先をぺろりと舐めて様々な不動産情報が書かれた紙を捲っていく。


「こちらはどうでしょう」


 木造アパート二階、ガスコンロがついていると話す。家賃は利一が唸る程の値段だった。都会は高いとため息が出るのだけは何とか抑える。

 しかし立地は好条件だった。最寄りの駅も遠くなく、商店街が近いので人の目が届きやすい。


「見せて貰おうか」


 志津子はこくりと頷き女性は「早速行きましょう」と立ち上がった。


 佐渡川不動産は商店街のアーチを潜って一つ目の角にある。入って来た時と反対側へと歩いていく。クリスマスの雰囲気はすでに終わり正月の準備に追われている主婦たちで活気づいていた。


「それにしてもこんな時期に引越しだなんて大変ですね。此処には仕事で?転勤ですか?」

「実は仕事はこれから探す予定で」

「そう、ですか」


 声のトーンが一気に落ちた。正直に話したのはまずかっただろうかと利一は冷や汗をかく。


「都会で一旗揚げようみたいな感じで?」

「そ、そんな大それたものではなく…これから二人で暮らしていくために普通に働き口を探しているところで…」


 ふーんと怪訝そうに相槌をうつ。これ以上突っ込まれて怪しまれたら借りれなくなるのではないだろうかと不安が募った。

 案内されたアパートは商店街を出て十分程の距離にあった。外階段を佐渡川の先導で上がっていく。三人の靴がかつんかつんと鳴らした。佐渡側は一番奥の部屋の鍵を開ける。ドアノブを捻るときぃっと蝶番の軋む音がした。黴臭さが鼻腔を刺激し、志津子は堪らず小さくくしゃみをした。

 佐渡川が先に靴を脱ぎ慣れた足取りで南向きのカーテン代わりに貼りつけた窓を覆う紙を取り外す。一気に光が差し込んだ。六畳間の畳部屋だ。


「御覧の通り南向きの窓で日当たりもいいし、台所も小さいけれど備え付けています。あと向こうがトイレね。押し入れはこっち」


 入口から反対側を指差しすりガラスの小窓がついたドアを指さす。


「これで家賃がさっきの通りだけれど…保証人はどうしますか」

「保証人?」

「まさかないってことは…」


 じろりと睨まれ二人は顔を見合わせた。


「実は…」


 何と言えばいいか考えていると先に志津子が口を開き、事情を説明した。


「駆け落ちぃ?まぁ、なんてこと…」


 佐渡川は頭を抱えてため息をつく。


「どうかお願いします。一年…いえ半年だけでも借りれませんか?その間に生活を成り立たせて家賃も必ず遅れないようにしますから。もし遅れが出るようになったら家を出ます」


 無理を承知で頼み込むとまた大きくため息をつく。


「大家さんに保証人なしでもいいか確認してからね」


 一度店舗に戻り佐渡川はすぐに電話をかけた。訳アリでとか駆け落ち夫婦とか改めて言葉にされると肩身が狭かった。長い電話だったのでどうなるかとハラハラしたが、最後にありがとうございますと、目の前にいない大家に頭を下げている様子をみてほっと胸を撫でおろす。


「おまたせしました。結論から言いますと、一年間だけなら了承が出ました。ただし敷金礼金、あと三か月分は先に払えればと条件付きですが」

「払います!」


 安堵は大きな声となった。お金を貯めておいてよかったと心から思った。使い道のなかったお金がこれほど有意義なものになるなんて、少し前の利一には考えられないことである。


「それじゃあ契約をしましょう」


 契約書と筆記具を取り出して差し出される。志津子が私がとボールペンをとった。年齢上利一が契約するのは出来なかったからである。すでに戸籍を取り寄せていた志津子はそれと共に差し出した。


「親御さんはいるようね」


志津子の年齢を見て女性は敬語をやめた。利一が契約が出来ない年齢だということもすでにわかっているのだろう。


「はい」

「本当ならすぐにでも連絡をつけたいところだけれど、思うところがあって此処にいるのよね。こちらに不利なことが少しでもあれば庇えないし、何かあれば親御さんなり、警察なりに連絡するからね。それでも良いのね」

「はい」

「わかりました。それじゃあ契約成立よ。これ以上の厄介事は御免だけど、困ったことがあったらいつでもいらっしゃいな」


 二人は頭を下げて礼を伝えた。

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