第26話 花壇

 昼になって清子は花壇の世話をしに行くから一緒に見に来ないかと誘いに来た。清子は手拭いの上に麦わら帽子をかぶって、エプロンにアームカバーにと準備万端だ。手には水筒とビニール袋がある。利一は迷わず首を縦に振る。


「使い古しだけど」


 そう言って麦わら帽子を差し出した。受け取って清子の後をついていく。二階に降りると、食堂と反対側の通路を歩いていく。二階には清子の部屋と夫婦で入居している利用者の部屋が通路を挟んで向かい合わせにある。この部屋の住人も今はデイサービスへと出かけている。更に奥へと続く通路は大きく開けられた扉から光が差し込み床が柔らかい白色に光っていた。ぴゅーっと風が吹き込むと真夏の熱が共に体をすり抜けていく。

 扉を過ぎると太陽の眩しさに眉間に皺をよせ目を細める。次第に視界に飛び込んできたのは十畳ほどの少し広い庭だった。三方向は柵で囲まれており、コンクリートの地面の上に人工芝を置いている。柵の下と中央にずらりと白いプランターや大小様々な丸い植木鉢などが並んでいた。出入り口の扉の左側に白色のガーデンチェアと丸いテーブルが置いてある。右側には網を張って大きなニガウリが実っていた。


「今日も暑いわねえ。利一さん、好きにご覧になって疲れたら中で休んで頂戴ね」


 清子は手に持っていた水筒を丸テーブルに置いて、好きな時に飲んでと付け加えてから、ビニール袋を持って右端のプランターの方へと行った。しゃがみ込んで花の間にぴょこぴょこ生えている小さな雑草を抜き始めた。


 利一は反対側から順々にプランターを見ていく。花の種類に詳しくない利一にも目で楽しめる程に様々な種類でかつ色とりどりの花が並んでいる。プランターには花の名前が書かれた名札が刺さっていた。ペチュニア、ムクゲ、ケイトウ、ポーチュラカ、ペンタス、ヒャクニチソウ、家の庭では見ない花が多く新鮮だ。花の咲いていない緑だけの鉢や、何も植わっていないプランターも多い。清子は年がら年中何かしら咲くようにと、あれこれ植えているのだと教えてくれた。入居者が好きな花を植えていくので増えていく一方だと笑っている。この中には亡くなった人が植えたものも多数あるそうだ。それを新しい入居者が育み繋がれていると嬉しそうに話す。


 ガーデンチェアに座って一息ついていると、新名と交代で入った従業員が駆けて来た。


「清子さん」

「あらあら、どうしたの」

「志津子さんが…」


志津子の名前に反応する。


「デイで倒れたそうでこちらに戻ってきました」

「倒れたって?どういうことだ」


利一は思わず怒鳴るような声が出した。そしてすっと血の気が引いた。食い掛るように尋ねると従業員はあたふたと口ごもった。


「まあまあ、落ち着いて。病院じゃなくてこちらに帰ってきたということは大事ではないんでしょう」

「ええ。どうやら熱中症になったようで立ち眩みを起こしたようです」

「向こうの方はなんて言ってたの?」

「熱は下がったのでデイで寝ていたのですが、今日は夏祭りのイベントで賑やかしいから帰りたいと仰ったようです。もしなにかあれば病院の方もかかってくださいと」

「そう。様子見ってところね。志津子さんはどうしてるの?」

「お部屋に戻られて休んでおいでです」

「わかったわ。ありがとう。着替えてからすぐに見に行くわ。利一さんごめんなさいね。お庭は好きに見てて頂戴ね」


 清子は麦わら帽子を脱いで建物の中へと戻っていく。けたたましい蝉の鳴き声とじりじりと照り付ける太陽の日差しの中に残された利一は少し息があがっている自分に気付いた。大事ではないと清子は言ったが落ち着かない。丸テーブルに置かれた水筒に視線を落とす。水筒を持ち急ぎ足で千世の部屋がある四階へと向かった。


 利一が住まう三階にはスタッフが泊まる部屋を含めて五部屋ある。利用者が集まれるようにソファとテーブルが置かれた憩いの場があった。初めて降りる四階も同じような造りだった。部屋番号と共に書かれた住人の名前を確認しながら志津子の部屋を探す。

四〇二号室に志津子の名前があった。苗字は「里山」と書かれていた。部屋の前まで来てノックを躊躇った。女性の部屋に押し掛けるのは不躾だ。気付かれないうちに退散しようと踵を返すとエレベーターから降りて来た清子と目が合った。


「あらあら、利一さんだめよ。ここは女性以外は立ち入り禁止よ」


 黙って立ち去ろうとしたのに清子の声が通路を響かせた。やましい気持ちがなくても思わず焦ってしまう。


「お互いのお部屋に行くときはスタッフの許可を取って貰わなくちゃ」

「すみません」

「いいのよ、心配だったんでしょう。ちょっと待ってね」


清子はノックをして中に入る。するとすぐに利一を手招きして引き入れた。いいですと断っても「まあまあ」と無理に引き入れる。

 はたとベッドに座っている志津子と目が合った。一瞬昔の志津子の姿が見えた。懐かしい艶やかな黒髪を蓄えていた頃の彼女だ。幻はすぐに消え灰色の髪で目元に皺が寄せられた志津子は口元を抑えてふふふと笑っている。

 少し顔が赤いようだが元気そうでほっと胸を撫でおろした。安心すると志津子の笑い声がうつり利一の口元にも笑みが零れる。志津子は自室の背もたれがついた椅子の方へ手を差し出し、どうぞ座ってと言った。清子が椅子を千世の方へ向くように動かした。利一は促されたままに腰をかける。清子は部屋のドアを開いたまま飲み物を取りに行くと部屋を出た。


「お加減はいかがですか」

「平気よ。大したことはないわ」

「そう、ですか。それなら良かったです」

「相変わらず優しいのね」


 利一の心臓が跳ねる。跳ねた心臓は何度も波打った。泣きそうになる目を抑えるように膝にのせた拳を握る。言わなくてはと思っても言葉にするのが恐ろしい。暫しの沈黙が流れ、何か言わなくちゃと気が急いた。


「はいはーいお待たせしました」


 タイミングを計ったように清子は氷が入ったグラスと麦茶が入ったボトルをお盆に乗せて部屋に入る。お盆をテーブルに置いてグラスにお茶を注ぐとカランと涼し気な音を奏でた。グラスを志津子に渡す。


「はい。ゆっくり飲むのよ」

「ありがとう」


少し口をつけて美味しいと呟いた。


「利一さんも」

「どうも」

「それで、志津子さんに聞いた?」


また心臓が跳ねた。清子は自分たちのことを知っているのかと不安がよぎる。


「なあに?」


志津子が小首を傾げる。利一はますます焦った。


「ほら、お花のことよ」


清子は視線をテーブルにやった。写真たての前に小さな花瓶が置かれ花が生けられていた。

あ、と息が漏れる。ついさっきの事なのにすっかり頭からすっぽ抜けていた。


「利一さん、奥様の遺影に供えるお花が欲しいんですって。みんなの花壇から分けてもいいかしら」

「ええ、勿論よ。好きなお花を摘んでいって」


いつもの屈託のない笑顔で嬉しそうに言うもんだから拍子抜けした。


「良かったわ」


志津子が目を細めて続けた。


「利一さんにも花を手向けられる相手がいるのね」


 利一の後ろにある写真に目を移す。利一もその後を追うように体ごと後ろを振り向いた。シミと皺を蓄えた一人の老人がそこにいる。笑うこともなくまっすぐカメラのレンズを見据えている男だ。

 この人が志津子の…


「ええ。旦那よ」


 その眼差しに名前があるならきっと誰もが同じものをつけるのだろう。

 愛しさと。


 もう一度写真を見る。志津子を支え続けてきた男か。

 はて。よくよく見るとどこかで見たことがある気がする。首を捻って考えてみるが、すぐには思い出せなかった。

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