第23話 いつもと同じ一日

決行日当日の朝、利一はいつも通り過ごしていた。朝食を済ませてから店の前の掃き掃除をする。日が昇ったとはいえまだ静けさが漂う中、通勤や通学に通る人が木枯らしに極力当たらないように体を縮こませて歩いてる。近所の人が利一をみて挨拶をする。利一もそれに応えて頭を下げる。いいお天気ですね。ぐっと冷え込みましたね。そんな他愛ない天気の話がやけに心に沁みた。

 はたきを持って店内の掃除にとりかかる。奥で電話が鳴り響いた。朝の店番の誰かがすぐに取り応対している。


「利一、昼すぎにクリーニング店からお客様の着物が届くから受け取ってくれるか?」

「わかりました」


 先日利一の体を心配してくれていた女性は昼時には家に帰る。昼時の店の留守をするのは利一が殆どだ。明日からはそうじゃない。比較的女性が多い職場だ。そして結婚して子供がいる人が多い。利一がいなくなれば誰かが代わりをするのだろう。


 お香を取り出して火をつける。ゆっくりと煙を燻らせると香りが柔らかく広がった。最初の頃はなれない香りだったなと思い出す。店に染みついたこの匂いがいつかは仕事着にも移り、思い返せば懐かしいと思える故郷の匂いになるように頑張ろうなんて思っていたっけ。

表をあけて暖簾をかける。さあ、最後の一日の始まりだ。


 客足はさほどでもなかった。朝は品物を取りに来た客が数名と、少し気が早い再来年の成人式の着物の相談に来た客だけだった。冬になり周辺の年頃のお嬢さんがいる家庭から振袖の話を聞き、どんなものかと覗きに来ていた。一緒に来た当の本人はあどけなさが残る娘だった。お似合いですよと社交辞令も含めて褒めると頬を赤らめて恥ずかしそうに笑う。彼女の母親と祖母もいいねいいねと気になる反物を片っ端から合わせては満足気に笑っていた。

 昼は静かすぎた。欠伸が漏れ出す程だった。伝票の整理をしながら、出入り口が陽に照らされてぼんやりといい天気だなと呟く。穏やかすぎる一日.。これからこっそりまとめた鞄を持ってこの町を去るとは思えない。明日も明後日も此処にいるのだと錯覚する。

 閉店間際になっても客足が伸びることはなかった。特に大きなミスもなく平穏に終える日が珍しいわけではないが、どこか拍子抜けな気分でもあった。時間が迫る中利一は心が騒ぎだしていた。何事も起こらず過ぎることが大事だ。それなのに最後の一瞬が惜しくなっている自分がいた。終わりは志津子との生活が始まる新しい門出のはず。心の奥にしまい込んだ疚しさが顔を覗かせる。


「もう来ないだろう。店じまいしようや」


 夕方に店に戻って来た鏡さんは片付けを促した。予約の客は全て捌いたし確かにこれ以上客は来ないだろう。利一は了承し店を片付ける。鏡さんはいそいそと身支度を始めるために店の奥へと引っ込んだ。仕立て屋の主人との飲み会の準備だ。このまま出かけてしまえば帰ってくることもない。平静を装いつつこのまま何事もないことを願った。

 午後番の従業員と共に店じまいをする。暖簾を外し外に出ると太陽は西の山すそに赤い火を灯しながら沈もうとしていた。目を細めてそれを眺めている。沈み切るその時までずっと見ていたかった。


「それじゃあ、戸締り頼むぞ」


 鏡さんはそれだけ伝えて太陽と反対の方向へと行った。大きな背中に太陽の残り火が照らす。「いってらっしゃいませ」と背中に投げかけて深く頭を下げた。鏡さんは「おう」とだけ返事をし振り返ることなく光の中へと消えていく。利一はその背中をずっと追っていた。


 残っていた従業員が帰ると店の中はしんと静まり返った。利一は二階の自分の部屋へ向かい押し入れに隠していた鞄を取り出す。五年間使っていた部屋は今日まで極力片付けていたのでがらんとしている。布団と処分する衣類などをしまった段ボールを押し入れに入れた。利一がこの部屋をあてがわれた時にはすでに備えてあった文机と、押し入れの前に掛けられたスーツだけが影を落とす。

 ゆっくり感傷に浸っては居られない。名残惜しさを置いて部屋を後にした。裏口から出て、店の表の鍵と裏口の鍵を郵便受けに手紙と投函する。

 この店を出ることを決めてから今日まで手紙に書く内容が一番悩んだことだった。人間らしく暮らしていけたのは間違いなく鏡さんのおかげだった。そんな彼を裏切って出て行く。何を書けばいいか判らなかった。何度も推敲して手紙を認めた。

 この決断は間違っているのかもしれない。それでも自分で決めた道だ。許されなくてもいい。認められなくてもいい。

 それでも僕は今日このを出る。

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