第13話 鏡さんの警告
バイオリンを見せて貰ってから、もう会うことはないと毎回自分に言い聞かせていたが、志津子は利一が休みの度に顔を出した。直接店に来ることも有れば、町中でひょっこり出くわすこともあった。その度に喫茶店で話したり、公園で散歩したり、意図せず逢瀬が続く。次第に志津子と逢うのが当たり前になっていた。店員と客の間柄でなく友達未満ような関係になっていた。以前よりは利一にも余裕が出来ている。胸の高鳴りは抑えられずにいるが。
「内田くん」
利一の次に年若い女性の従業員が声をかける。彼女は最近働き始めたばかりで、今は店の掃除をするよう言い渡されていた。朗らかで少しぼんやりしているところがある。性格かずぼらさが際立っていた。店の隅に埃が溜まり、上から下への掃除の鉄則は守られない。ベテランの従業員からは「女なのに」とぶつくさ言う者もいた。叱っても暖簾に腕押しな状態で、やんわりと受け流されてしまうので呆れられていた。それでも文句ひとつ言うことなく懸命に働く姿から悪い子ではないと受け入れられていた。
「なんでしょう」
昼間忙しくお八つ時を過ぎて漸く昼食にありつけた。今日の賄いは近所の食堂で頼んでいた卵丼である。朝食から何も食べていなかった利一はすぐに空腹を満たしたいと、かきこんでいるところだった。
「お客さんよ。綺麗なお嬢さん。小野寺さんっていってたかしら」
小野寺と聞いて喉に詰まらせむせた。すでにさめた煎茶を流し込み事なきをえる。
「なになに?恋人?」
利一の反応を見て水を得た魚と言わんばかりに食いついた。口はにやにやと目はキラキラと良いおもちゃを見つけた子供のようだった。
「ち、違いますよ!小野寺様のお嬢様です。此処のお得意様ですよ。いらっしゃたところ、見たことあるでしょう?」
成人の反物を買い付けに来てから数か月の間に何度も足を運んでくださっているところを彼女は見ているはずだ。紹介もしたはずだが「そうでしたっけ?」と唸りながら首を傾げた。本気で覚えていないようである。
彼女の記憶の悪さを気にしている場合ではない。あと二口というところを無理矢理一口でかき込んでから店に出た。
「お待たせしました」
「こんにちは。お忙しいところでした?」
「い、いえ!丁度休みをいただいていたところで、特にすることもなく暇をもてあそんでいました」
気を揉ませてはいけないと咄嗟についた嘘に、後ろで彼女が噴き出していた。此処にいては揶揄われるだけだと、咳払いをして外で話そうと促した。まだ昼からも仕事があるので遠くには行けない。店から二つ先の曲がり角へ連れて行った。
「今日はどうされたんですか」
「お稽古の帰りなの。これを渡したくて来ちゃった」
手を出してと言われ素直に両手を器の様にして差し出した。乗せられたのはぱりっとしたビニールに入れられたジンジャークッキーだった。ぎゅっと結ばれたサテンの青いリボンがてかっていた。彼女は女学校で作ったものだけれどと嬉しそうに話す。
「それからこれ」
白い封筒を渡された。特に何も書かれていない取るに足らない普通の封筒だ。
「今度学校でチャリティーコンサートがあるの。良かったら来てくださらない?」
志津子が通う女学校はミッション系の名門校だ。
「お誘いは有難いんですが、着ていく服がなくて…」
「堅苦しいものではないのよ。招待されるのは生徒の家族や親族とお友達が殆どなの。私学外のお友達はいないしお母さま以外は誰も呼ぶ人がいないから、招待状が余っちゃって困ってるのよ」
同級生の中には、昔なじみの友達や、婚約者、中には親には内緒で付き合っている恋人を連れてくる人もいるのだとか。恋人と聞いて自分の事ではないと判っていつつも鼓動が早くなる。
無下に断ることも出来ず、押し切られてしまい受け取るしかなかった。家族以外で誘う人がいなかったけれど、自分を選んでくれた。もしかして、もしかしなくともと淡い期待が押し寄せては、身分違いの現実に引いていく波のように心が騒いでいた。
現実といえば着ていく服だ。仕事着の着物と、シャツと着古したパンツしか持っていない。時折仕事で良い着物を身に着けることはあっても、広告用の派手な着物で余所行きの服は持っていなかった。とにかく困ったと鏡さんに相談することにした。
「なんだって?」
鏡さんは眉間に皺を寄せた。
「あの一回で終わってるんじゃなかったのかい。いつから、そういう仲になったんだ」
「そんなんじゃありませんよ。たまにお茶をしたりするくらいで」
「それをそういう仲っていうんだよ。しかし参ったな…小野寺のお嬢さんが、まさか利一にそこまで執心なさるとは思わなかった」
「いやいやいや、本当に!俺みたいな金も名誉も持っていない奴に本気になるわけないでしょう」
「馬鹿野郎!当たり前だ!そんなことになってもらっては困る。とはいっても、学校のお遊びとはいえ正式に招待されたんじゃあ、今更断るわけにもいかねぇな。わかった。服はなんとかしてやる。ただしこれっきりにするんだ。いいな」
当然の忠告だ。小野寺家の娘が恋愛結婚なんてあるわけがない。例え許されても相手は自分みたいな天涯孤独の自分ではない。分かっていても素直に肯定することができなかった。脳裏にある彼女の笑顔をかき消して、唇をきゅっと結びゆっくりと頷いた。
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