第11話 バイオリンケース
利一は浮かれていた。コーヒーをご馳走になった日以来、志津子を夢に見る日が増えていた。一度きりのデート———とは言えないかもしれないが、これまで至上楽しくて甘酸っぱい時間を過ごしたことで心もやる気も満ちていた。
それは同僚にも伝わっていた。それまでも懸命に働いていた利一だが、物事に忠実で少し融通の利かないところもある固い印象を持っていたのに対し、世間話ひとつとっても柔らかさを孕んでいるように感じる。なんなら彼の周りに花が飛んでいる幻覚すら見えた。
とは言ってもたった一日の思い出だ。充足感も日に日に薄らいでいく。一度きりのつもりがもう一度会いたいと思う欲は日に日に大きくなる。あれはお礼だったんだと自分に言い聞かせて、あの日の思い出を宝物のように大事にしようと自我を抑えていた。
叶うことのない次のデートを夢見るのをやめて極力日々の生活は志津子と出会う前と同じようにと心がけていた。
別の休日、利一は特別な用事を作ることなく、いつものように本巡りに町へ繰り出している。貸本屋に本を返却をした後、また別の本を借りる。図書館も同じようにした。そして本屋でどんな本が出ているのか確認しようと立ち寄っていた。 立ち読みしかしない利一に店主の冷たい視線を送る。そんな視線を避けながら、前回読んでいた本を手に取って、気になる続きを読んでいた。短い時間で沢山読んでしまおうと集中していたところだった。
「こんにちは」
「え、あ、志津子さん?」
先日とはまた違った洋装を身に纏っていた。小花が散ったクリーム色のワンピースだ。腰のあたりに茶色いベルトを締めており細い腰が強調されている。
「どうしてここに?」
「お稽古の帰りなの」
手に持っていた手付きの焦げ茶色のケースを両手で胸のあたりに持ち上げて見せた。前に会った時も、その前にも持っていたケースに釘付けになる。
「お稽古?」
なんの稽古かと訊きたいのを察した志津子は「バイオリンよ」と答える。利一は文字を辿るように「バイオリン…」とオウム返しをする。彼にとって未知の楽器だった。バイオリン自体が何かは知っているし、ラジオで音を聞いたこともある。しかし生の楽器は見たことも聴いたこともなく、物語の中から出て来た魔法の道具のように思えた。楽器ケースから目が離せなかった。
「良かったらご覧になる?」
嬉しい申し出に遠慮することなく「是非に」と、ついしゃいだ声になった。不躾だと我に返ったのは店主が大袈裟に咳き込んだ時だった。立ち読みから世間話に花を咲かせようとしている煩わしい客を早く追い出そうとはたきを持ってバタバタと振りかざし掃除を始める。二人は恥ずかしそうに小さな声で「すみません」と言い外に出た。
志津子はゆっくり話をしましょうと前と同じ喫茶店に行こうと誘った。楽器を見せて欲しいと言った手前断ることも出来ず財布が入ったポケットに手を突っ込んだ。
窓際の席に案内された。渡されたメニューを一応開くだけ開いて、一番上に書かれたコーヒーだけを頼む。志津子も同じものを注文した。
「そういえば今日はお一人なんですか?前にお会いした、えっと梶山さん?はご一緒じゃないんですか」
「梶山さんには車で待っているわ。さっきも帰り道にあなたを見かけたから本屋の前で降ろしてもらったの」
そういえば本屋の前に黒光りした車が停まっていた。あまり見かけない車だから目立っていた。
「声かけなくて良かったんですか?」
「ええ。私たちが出てきたのは見ているもの。近くに車を停めなおしているはずよ」
喫茶店の窓の外を目で差した。その視線を追うと本屋の前で見た車と同じものが停まっている。梶山の姿は見えない。車内で待っているのだろう。
酔っ払いに絡まれた時もすぐ傍にいたのかもしれない。タイミングが違えば自分が仲裁に入る必要はなかったのだろう。
「それなら良かったです。女性一人では危ないこともあるでしょうし、気を付けてくださいね」
注がれた水を飲みながら伝えると志津子は目を細め、頬を染めて「はい」と小首を傾げた。どきっとした利一は残っていた水を一気に飲み干してテーブルの隅に寄せた。
「よ、よければ、み、見せてもらえませんか?」
こみ上げる気持ちを隠すために話を急転換したものだから志津子はまた小首を傾げる。後から「バイオリン」と付け足したら此処にきた目的をすでに忘れていたのか思い出したと手を合わせて、ソファに置いていた楽器ケースをテーブルに乗せた。留め具を外し蓋を開ける。つんと鼻を突く匂いがした。木製のバイオリンから想像もしなかった匂いである。(後から松脂の匂いだと知った)テーブルの上のオレンジ色のライトに照らされてニスが塗られたバイオリンの天板が艶めいた。どんな音がなるのだろうか。ぴんと張られた弦を触りたい欲求が沸きおこる。
「触ってみる?」
ケースから取り出そうとして利一は慌てて首を横に振った。自分が触ると壊してしまいそうな恐怖があった。手に取っただけでぽきっと折れてしまいそうな造りに見えた。
助け船と言わんばかりにウエイトレスがコーヒーを持ってきた。悪い予想が現実になる前に片付けてもらった。それでもバイオリンの音が聴けなかったのが残念で名残惜しくもあった。
「いつからバイオリンを習っているんですか」
「子供の時よ。知ってる?子供のバイオリンって分数バイオリンって呼ばれて、この形のまま小さいのよ。象の赤ちゃんの様に大人と同じ形なのにそのまま小さくなるから、今持つと玩具みたいで可愛らしいの」
手振りを交えて楽しそうに話した。子供の時は叱られてばかりで辛かったけれど今は続けてきて良かったと思えるくらい楽しいとか、難しい曲が弾けると嬉しくなるとか、同じく楽器を習っている兄や姉と音を合わせるより学友と合わせるのが好きだとか、どれほどバイオリンが好きなのか聴いている利一が自然と顔が綻ぶ程伝わってくる。
「今では宝物よ」
大人びた彼女の中の少女が顔を出し無邪気に言った。彼女がバイオリンを弾く姿を無性に見たくなった。此処は喫茶店でお願いするわけにはいかない。例え此処が喫茶店でなくてもそんな機会は訪れないのだろうなと利一は作り笑顔の下で静かに嘆息した。
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