第10話 ミルクが蕩ける
利一を驚かせたのは、あのアクシデントから二日後に、本当に彼女がひょっこり顔を見せにきたからである。あの人同じケースを持っていた。利一の次に驚いたのは鏡さんだった。
「お、小野寺のお嬢様?い、一体どうされたのですか」
「今日はお願いがあって寄らせていただきました」
突如やって来た小野寺家の末娘の言葉はその場にいた誰もが首を傾げた。一体なにをお願いされるのか想像も出来ず、はらはらと次の言葉を待つしかない。
「利一さんを少しお借り出来ませんか?」
鏡さんはぽかんと口を開いた。苦情でなかったことで多少心が緩んだが、彼女の言葉の意図がその場ではくみ取れなかった。
「それは一体どういうことでしょうか」
「先日彼に助けていただいたので、そのお礼をしたくて参った次第です」
今度は利一が顎が外れんばかりに驚いた。あれは内密に片付いた案件のはずだ。
「助けた?うちの内田が、ですか?」
「ええ。酔っ払いに絡まれていたところを彼が颯爽と助けに来てくださって、おかげで大事にならず済んだのです」
鏡さんは利一の方へ振り返り、事実かと目で訊ねた。利一は即座に否定したかったが、そうすれば彼女が嘘をついたことになってしまう。どうすればいいか答えが出ず目が泳いだ。
「このことは父には伝えておりません。小野寺家の娘が酔っ払いに絡まれたなんて公にするととんでもない噂に発展することもございましょう?ですが、お礼ひとつ出来ないなんて家名の恥にもなります」
「はあ…」
「利一さんは素晴らしい方ですね。あの日お礼をしたいと言ったのですが、その場で断ったのです。また店に来てください、それで充分だと仰った。この店を大切に思っているということは、ご主人が利一さんや、他の従業員を大切に思っていることですよね。私感銘を受けたのです。だからこれは私が個人で判断しお礼に参ったのです」
彼女は始終にこやかに答えていた。鏡さんは接客の笑顔を絶やさなかったが苦さをはらんでいた。小野寺家の淑女とはいえ、女学校を卒業しない未熟な女子だ。一人歩きに、予約も入れず押し入る彼女の幼さに危うさを感じていた。
「お茶をしたらお返ししますので、どうか許してくださいませんか」
即座にはいとも言えず唸るばかりだ。だからと言って無下に断ることも出来ず、一時間だけと譲歩して送り出した。
鏡さんの懸念は十五歳の利一にはまるっきり想像も出来ていなかった。憧れの女性が自分に会いに来たというだけで胸も頭もいっぱいで、そこまで考えが及んでいなかったのである。
彼女に引っ張られるがままに近場の喫茶店に行くこととなった。流行りの店とは知っていたが一人で入るには勇気がいって、お茶を飲むだけにお金を払うのは懐に見合わなかった。ここでお金を使うなら本を買いたいと思っていた。初めて入る喫茶店は人の話声があちこちでするのに、レコードの音のおかげで耳をそばだてなければ会話の内容まではわからなかった。彼女は慣れているのか、ウエイトレスに二人と伝え席を案内されるときも颯爽と軽やかに歩みを進めた。反対に利一というと場違いなところに来てしまったと落ち着きがなかった。どのように振舞えば正解なのか考えているうちにどうしようもなく目を伏せていた。
「コーヒーで良い?」
「は、はい」
はっと我に返った時には遅かった。彼女はすでにコーヒーをふたつとウエイトレスに伝え注文が通ってしまった。一度も飲んだことのない飲み物だ。店では日本茶しか飲む機会がなかった。鏡さん初め、身近でがコーヒーや紅茶を飲む人がいなかった。いや、利一が知らないだけかもしれない。個人的な付き合いは利一自身がしてこなかったせいもある。
「利一さんはこういうところには来ないの?」
「ま、全く…疎くて…」
「そう。だったら今日は初めての記念日になるかしら」
彼女は小首を傾げて嬉しそうにしていた。
「あの、お、小野寺様…」
「そんなにかしこまらないで。よかったら名前で呼んで下さらない?志津子って言うのよ」
「な、名前!?」
女性の名前を、それも年頃で憧れの女性の名前なんて呼んだことが一度もなかった。どちらかといえば名前は呼ばれる側だった。店では最年少で従業員からは苗字か、呼び捨てだ。ポスターの効果で客からも『利一くん』や『利一さん』時には『利一ちゃん』なんて十五歳の利一には気恥ずかしい呼び方すらされる。
「志津子さん…」
たった三文字の名前を呼ぶだけでこんなに緊張するものなのか。自分のあまりの初心さに恥ずかしくて熱くなった顔をテーブルにばかり向けていた。
「はい」
優しく甘い声だけで湧き上がる幸福感に溺れそうな気すらした。
「お待たせしましたあ」
作られた裏声で利一は現実に引き戻された。ウエイトレスは二つの白地に青い波のような模様が描かれたカップを置き「ごゆっくりい」と間延びしてそそくさとテーブルを後にする。
「さ、どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
どのように飲むかわからなかった。志津子はそのままカップに口をつけてこくりと一口飲んだ。それに倣い利一も恐る恐る口元に近づける。これがコーヒー。喫茶店は入ったことがなくても、いつも前を通る度に嗅いでいた匂いだ。香ばしく不思議と心が和む。異国の風が湯気と共に鼻腔を擽った。そしてついに普段緑茶を飲む要領で啜った。
口に含むと同時に舌の上で、更に鼻の奥に香りが広がり、がつんと頭を殴られたような衝撃が走った。食べたことのない苦みに思わず咳き込みカップを波立たせた。
驚きのあまり狼狽えていると志津子は肩を小刻みに震わせて俯いていた。こうなると判っていたのだと気付き利一は思わず「志津子さん!」と涙声で訴える。すると今度は我慢することなく口元に手を添えながらコロコロと笑い声をあげた。
「ごめんなさい。でもちょっと可笑しくて」
止められない笑い声に志津子の眼にも涙が少し浮かんでいた。揶揄われたことに怒るべきなのか、呆れるべきなのか、どう返せば正解なのかわからなかった。楽しそうな様子を見ていると羞恥心がどうでもよくなってくる。ただ自然と目尻がさがり気付けば自分も声をあげて笑っていた。
「あー、可笑しかった」
そう言って志津子は、備え付けの砂糖入れから角砂糖を二つ入れて、ミルクを一気に流し込みスプーンでくるくると回す。利一が訝しんでいると千世は舌をぺろりと出した。
「実は私もブラックは苦手なの」
初めて飲む利一の反応が見たいために我慢して一口飲んだのだと言う。
「そこまでしますか」
改めて倣って角砂糖とミルクを同じだけ入れスプーンで混ぜる。何者かわからない暗闇を落とした色に乳白色が混ざり合い、漸く目で美味しそうと思えるものとなった。それでもさっき味わった苦味の恐ろしさから恐々と口をつける。今度は苦味と共にまろやかさと甘みが舌の上で転がり難なく喉を通った。
「美味しい」
二人の声が重なり、どちらからでもなく笑い合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます