第9話 綺麗な女性
「小野寺様、ようこそおいでくださいました」
呉服屋の主人が正座をして頭を下げると、沢山肉がついた大きな体がまるでつきたての餅のようにふっくら丸くなる。従業員の間では裏で「鏡さん」と呼ばれていた。誰が言い出したのか定かではないが、鏡餅のようだと言ってからそれが従業員の間で皮肉を込めた愛称となった。
鏡さんは商売の手腕を存分に振るい地元では大きな呉服屋として名をはせた人だった。商売の始まりは戦後の不況の中良い反物を仕入れたところから始まった。どういう経緯で仕入れたかは定かではない。食うものに困った時代だ。着もしない贅沢品を手放す人は少なくなかったのだろう。その反物を元手に事業を始め、持ち前の人たらしが功を奏し成功を収めたと本人は語る。実際顧客がついていたし、順調な商売が回りの非難や嫉妬を遠ざけた。
従業員も皆が鏡さんを慕っていたわけではない。特に若い従業員には殊更厳しく当たり、時には八つ当たりをすることもあったので嫌っていた人も少なくなかった。「金に汚い」「やくざあがり」など噂されていた。事実かどうかはわからない。その筋の人と食事をしていたなんて、それらしい目撃をした従業員もいたが、利一は自身で見たわけではないので鵜呑みにしなかった。
利一が鏡さんの悪い噂を信じなかったのは、それ以上に世話になっている恩を感じていたからだ。利一の家は貧しかった。男ばかり生まれた内田家はお国の為だと上から順番に戦争にとられた。父も兄たちも帰ってくることがなかった。残された母と利一は二人で暮らすには厳しく苦労が絶えなかった。母は必死になって働いたが利一が十になる頃に身体を壊しそのまま静かに亡くなった。利一は身寄りがなく途方に暮れていたところを運よく鏡さんに拾われた。住み込みの下働きとして雇われた。
掃除、洗濯、食事の準備、目に付くことはなんでもやった。母が働きに出ている間家の事をしていた経験が役に立った。鏡さんも従業員も目端の利く利一の働きを大層気に入り可愛がった。働き具合もさることながら、持って生まれた見た目のおかげもあった。切れ長の目と瓜実顔は流行りの歌舞伎役者に似ていると近所でも評判だった。鏡さんは利一に薄化粧を施しモデルの真似事をさせた。写真を撮ってはポスターを作り店の広告に使った。利一を使った広告は評判を呼んだ。ポスターを見た親が自分の子供にもと反物を買い付けに来るようになり店は一層繁盛した。
慌ただしい日々はあっという間で利一は十五歳になっていた。相変わらず下働きが多かったが接客をする機会も増えていた。今日はお得意様の一人であり、名家である小野寺家の主人が、成人を迎える前の一人娘を連れて来ていた。利一はお茶を出す際に大きな目を細めてほほ笑みかけられ、どきりと胸がなった。思わずふいっと目をそらした。職業柄色々な女性を見てきた利一だったが、初めて綺麗な女性だと思った。どぎまぎしてしまった利一はまともに接客も出来ず、殆ど鏡さんが対応した。頼まれた反物を出しては傍で座って彼女を目で追うばかりだった。帰り際にお礼を言って笑いかけたのは鏡さんではなく自分だと気付いた利一の心は彼女で埋め尽くされた。
艶やかで眉の上で揃えられた前髪、鈴を転がすような声、笑うとぽっと柔らかな紅色の灯りが点るような頬、紅を差さない桜色の唇、丸襟のブラウスから伸びる腕も、ひざ下のスカートから伸びる細い足、寝ても覚めても彼女のことばかり考えていた。それに名前がついていることは知っていた利一だが、自覚をするたびに生まれが違うことが唯一理性を保つ理由となった。彼女は華族の流れで、自分は庶民、それも相当貧しい庶民だ。ちょっとつきあいたいとか、ましてや結婚なんて夢のまた夢だ。彼女は高嶺の花、雲の上の存在だ。彼女を見つめることが出来ただけで十分だと自分に言い聞かせながら悶々とする日々をやり過ごした。
とある休日のことだった。その日は丸一日休みを貰ったので町へ繰り出すことにした。利一は休みの度に行くところと言えば図書館か貸本屋だった。図書館は充実したとは言えず、物足りなさを覚えた利一は新しい書籍を求めて本屋で立ち読みすることもしばしばあった。絶対に買わなかった利一に対して店主の目が厳しく光り、時には足を延ばして隣町まで行くこともあった。
鏡さんに拾われる十歳までに読み書きそろばんはマスターしていたが、それ以上に知識を深める機会がなく、書物は利一の先生であり、また娯楽だった。とはいえ身寄りのない利一の給金は今の生活や、今後の生活の為に貯めるために無駄遣いは極力避けていた。
今日も行きつけの貸本屋で娯楽本を見繕った後の帰り道、繁華街を通っていた。夕暮れにさしかかる前の時刻だった。夏日だったその日は外も明るい。これから賑わいを増そうとして店の準備をしている人々の熱気がじわじわと感じられた。利一は急ぐでもなく歩いているとふと耳に女性の声が飛び込んだ。何度も夢に繰り返し聞いた声だった。声のする路地へ目を向けると小野寺の娘が男に絡まれているところだった。とんでもないところに出くわした。それまでまともに喧嘩もしたことのない利一は足が竦んだ。何かを言い合っている声は聞こえても、頭で理解することが出来ないほどに混乱していた。分かったことは、大きなケースを抱えたあの女性が困っているということだけだった。
頭の上から溢れ流れ出した汗は妙に冷たかった。暑さからくる汗ではなく恐怖だと気付いたのは、どうにでもなれと踏み出し、女性の前に立ち塞がった時だった。睨むとはどういうことか判らずただ大きく眼を見開いた。自分より身の大きい男性の眼は冷たく見下された。格好をつけるどころか、膝はこれ以上ないほどがくがくと震え、誰が見たって無理をしているのは一目瞭然だった。ここまでくれば逃げることも出来ない。覚悟が決まったなんて格好いいことはいえなかったけれど、男と対峙し、腕を振りかぶったところで不思議と心が凪いだ。殴られても良い、その間に彼女が逃げられるのならば死んでも構わないと思った。振り下ろされるところで目を瞑ると。
「お嬢様!」
明るい大通りから低い声が響いた。殴ろうとした男は声に驚き腕の力が抜ける。そしてひっと声をあげて引き下がった。
「梶山さん」
梶山と呼ばれた男性は、怯えるでもないいつもの調子がする女性の声でほっと肩を撫でおろす。男はその隙をつき、梶山の脇をするりと走り抜けていった。待てと声をかけた時には大通りを走り抜けるその俊足に呆れながらもつい感心すら覚えてしまった。それは梶山も同じで男が逃げて行った大通りを見て嘆息が漏れる。
「お怪我はございませんか」
「ええ。彼が助けてくれたのよ」
女性はにっこりと利一に向いてほほ笑んだ。
「ありがとう。とても勇敢だったわ」
「い、いいえ、お、俺は…」
夢にまで見ていた彼女の笑顔は勿論のことだったが、何もできなかった利一の手を握られたことで心臓は早鐘を打ち呂律がうまく回らない。
「こちらの少年とお知り合いで?」
上から下まで品定めするようにじろじろと見られ思わず利一は身体を強張らせる。さっきの男より更に威圧感があった。
「顔見知りってところかしら。ほら先日お父様と呉服屋に行ったでしょう。そこで働いている方よ」
「ああ…ポスターの」
梶山は記憶と合致したのか納得して首を何度も縦に振る。利一はどのように反応して良いかもわからず、意味もなく「どうも」と頭を下げた。
「お嬢様を助けていただきありがとうございました。お礼をしたいのですが、後日改めてでもよろしいでしょうか」
「い、い、い、いいえ!助けただなんて、本当に何もできなかったし、あなたが来てくださって、俺のほうこそ助けられたというか…」
「しかし…」
何かを言おうとしたが梶山はちらりと女性の方を向き眉間に皺を寄せて思いあぐね居ているようだった。なんとなく利一には想像が出来た。小野寺家は名家だ。そのお嬢様が一人で繁華街にいるなんて堂々と言えることではないのだろう。事実男に絡まれているのだから、下手をすれば梶山の首が飛ぶかもしれない———と利一は勝手に想像した。
「また店に寄ってください。引き続きご贔屓いただければ、うちの店にも有難いし…それがお礼ってことで良いですか?」
予想が当たっているかは定かではない。しかし梶山はそこで即座に否定するでもなく女性の顔を伺いながら「お申し出通りに」と頭を下げた。顔をあげた時の眼は安堵を醸していたから、少しは利一の想像を掠っていたのかもしれない。
店まで送ると言われたがそれも断った。恐らく梶山も想定していたのだろう。今日の事は内密にと口約束のような申し出だった。お気をつけてと店員らしくつむじを見せるように頭を下げて見送る。
「今日はありがとう。利一さん」
利一は頭をあげた。彼女は抱えていたケースの取っ手を右手で持ち、左手を振って路地を去って行った。
———名前、呼ばれた?
顔の熱さは日差しのせいだと自分に必死に言い聞かせた。
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