★第8話 まどろみの中で

 朝食を終え部屋に戻る際に新名に声をかけられる。利一は顔を見せた。


「洗い物引き受けるのでお部屋入らせてもらっていいですか。ついでに先に掃除もししたいんで、よろしければロビーか、こちらの食堂で過ごしてください」


 新名の申し出は、朝食後は部屋でゆっくり本を読んで過ごそうと思っていた利一の眉間の皺を作らせた。やはり共同生活というものは自由がない。とはいえ、掃除をしてもらう身だ。嫌だと言うのは憚られた。

 食堂はフリースペースも兼ねている。住人が集まってお喋りをしたり、大きなテレビや、共同で使えるものが置いてある。

 利一は食堂で時間を潰すために、持って来た本を取りに行った。新名は部屋に入るなり、白いプラスチック製の洗濯籠を持って部屋を出る。籠は施設側で用意したもので、そこに入れておけば洗ってもらえる。利一は洗濯機を置いていないので選択パンの上に籠を乗せている。引っ越しの際に英恵はクローゼット代わりにしてもいいかもと悩んでいた。


 利一は机の上にブックスタンドを設置して並べた本から、迷わず一冊を手に取って食堂に戻った。雪美が厨房で水仕事をしている音だけが聞こえる。

 朝食を食べた席と同じ場所を選んだ。ほんの少ししか時間が過ぎていないと思うがさっきより明るい気がした。窓から心地よい日差しが薄手のカーテン越しに差し、テーブルに柔らかな陽だまりを作っている。七月後半はすでにゆだるような熱い季節だ。食堂は効きすぎという程ではないが冷房が効いており、陽だまりが丁度心地よかった。

 椅子に座り一呼吸する。立ち上がることも腰をかけることも、動作ひとつが腰をきしませた。ほっと一息ついてから本を開いた。

 施設に持って来た本は何度も繰り返し読んだものだ。どの本にも長年の手あかがついている。利一にとってこれらの手に馴染んだ本は、子供にとってのぬいぐるみのような存在だ。癖がついたページをめくるだけで気持ちが落ち着く。文字を目で追って頭の中で声が流れる。嗅ぎなれない施設の匂いにより心を支配していた不安と苛立ちが少しだけ溶けた気がした。

 いつのまにか水音が止まっていた。それに気づいたのは雪美が熱いお茶と、水筒に入れた冷たい麦茶を、本から少し話したところに黙って置いた時だ。昨日の夜はまだ施設で使われている客用のものだったが、今日からは利一が何十年も使っている湯呑だ。利一は顔をあげて雪美に会釈をすると同じように返され、そのままカウンターへと戻った。どういたしましてとも、ごゆっくりとも言われなかった。しおりを挟んで本を閉じ、湯呑を引き寄せ口をつけた。初めて飲む熱い麦茶が香りと共に喉へ下る。カウンターの方へ向くと雪美はこちらの視線に気づくことなく料理の下ごしらえを始めていた。

 これから続く他人の気配がある生活は苦痛で億劫だ。それでもお茶は美味しかった。陽だまりの中で利一は懐かしい日々を思い出していた。

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