第7話 夢じゃない

 目が覚めた時此処が家ではないことに気付くまで暫く時間がかかった。空が白んで朝の柔らかな光がクリーム色のカーテンから部屋に滲みだしていた。家の床に敷く布団より少し柔らかいベッドから起き上がるのに少し苦労をしながら身体を起こす。そういえば普段なら夜中トイレに目が覚めるところだが昨夜は一度もなかった。丁度催したのでトイレへ向かう。普段はブリーフ一枚とステテコを身に着けている。昨日は遠出と同じように老人用のおむつを身に着けていた。起き上がった時に重くはなかったので漏らしていない。やはり自分は施設で世話になるような老人ではないのだと自信がついた。

 洗顔と歯磨きをして壁に取り付けた鏡の中の自分と目があう。特に変わりはない。部屋に戻って、まだ見慣れない部屋のクローゼットを開けてハンガーに吊るされた夏用のポロシャツとボトムスを外し、引越しのために用意したプラスチックの引き出しから下着を取り出した。ベッドに広げ慣れた服に着替える。新しい生活の中で慣れているものを使うことだけが心の平穏を保てているような気がした。


「失礼します」


 若い男が声をかけて、中の様子を伺うようにゆっくりと引き戸を開けた。机に向かって本を読んでいた利一は声のする出入り口に目をやった。


「あ、おはようございます。よく眠れましたか?」


 昨日荷物を運び入れた新名が中に入ってきた。


「それなりに」

「そうですか。体調どうでしょう。おかわりございませんか」

「なにも」

「なによりです。これから朝食なんで食堂へ行きましょうか」


 特に食事を欲しているわけではなかった。とはいえ朝食は一日の原動力と人生で学んだ利一は、おとなしく本を置き杖をついて立ち上がった。今日は新名も手を差し伸べようとはしなかった。


「スケジュールはもう聞いていますか?」


エレベーターで待っている間、新名が話しかける。利用者の部屋は三階と四階にあり、それぞれが起きて食堂へ向かうので、降りたり上がったりを繰り返し少し時間がかかる。到着してもいっぱいだと乗ることが出来ない。


「自由にしていいと聞いているが」

「勿論です。読書がご趣味と伺っていますが、今日はそのように過ごされるご予定ですか」

「あんたには関係ないだろう」


 声が荒ぶる。新名が世間話のつもりで投げかける会話は過干渉に感じた。


「ええ。それでも僕たちは力になりたいので、もし外出なさりたい時や、それ以外でも困っていることがあれば声をかけてくださいね」


 八つ当たりだと自覚していた。彼はまだ若い。返答に困ったり、怒りを返してくるかもしれないと思ったが、彼は動揺ひとつ見せずに笑みを浮かべたまま言った。喧嘩ひとつ成立していないのに負けたような気がして余計に腹が立った。


 二階の食堂に着くと炊きあがったごはんの匂いが漂ってきた。すきっ腹を刺激する。賑やか…とまではいかなくても人の気配があった。すでに四人掛けのテーブルが一つ埋まり、もう一つは二人が座って、昨日の夫婦が二人掛けの席で寛いでいた。空いている席は二人掛けの席と、四人掛けの空いた二席だ。


「お好きな席についてください。お食事持ってきますね」


 そう言って新名はカウンターの方へ向かう。利一は迷うことなく誰も座っていない二人掛けの席へと向かった。すでに食事を始めていた利用者が利一に挨拶をする。その中には志津子も居た。彼女の声が一際大きく聞こえる。利一は頭をさげて二人掛けのテーブルに向かい、皆に背中を向けるようにして座った。

 席に着くと奥に置いてあるテレビが見える。若者の間で流行っているドリンクの紹介が流れている。別段興味はなくぼんやりと眺めた。間もなく新名が食事を持ってくる。入居時に朝食はパンかごはんかと訊ねられた。利一はずっとごはんだったので、それは有難い。プレートには希望したごはんと豆腐の味噌汁、目玉焼きときゅうりとかにかまの酢の物が乗せられている。こんなまともな朝食が出たのは久しぶりだった。

 そういえば晴子は食事には一番気に掛ける人だった。しっかり食べて元気に過ごす。それが口癖だった。繁や智子がまだ小さいときは、それを嫌っていた節もあったが、食べるまで出かけることを許さなかった。学校に遅れてでも食事をさせるのが我が家の―——晴子が決めたルールだったのだ。

 昨夜と同じく汁物は特に美味しく感じられた。自然と箸が進んだ。酢の物も酸味が強すぎることなく優しい味だ。唯一目玉焼きの塩加減だけは晴子の方がずっと美味しい。家でもよく朝食に目玉焼きが食卓に上った。塩も勿論だが黒胡椒の加減が絶妙だった。子供たちはごはんの上に乗せて黄身を割って白米に混ぜて食べ方をしていた。晴子は行儀が悪いと口うるさくしていたが、いざ自分もやってみると美味しいと言い、時折真似していたのを思い出す。


「利一さん、おはようございます」


 食事を終えた志津子がやってきた。律儀にもう一度挨拶をするので今度は利一も「おはようございます」と返す。


「昨日のことが夢じゃなかったのね。本当に利一さんと一緒にいるなんて不思議な気持ち」


 志津子は手に持っていた湯呑をひとつを朝食中のプレートの上に置き、もうひとつを利一の正面の席側に置いて座る。


「昨日は娘さんとお孫さんでしょう?素敵なご家族ができたのね」


食事中もお構いなしに話し続けた。利一は箸を止め、咀嚼していたごはんを飲み下す。


「ええ…まあ…息子の嫁と孫ですけど」

「お嫁さんなのね。どちらにしても良いご家族ね」


 誰だってそう言うだろう。昨日今日見ただけで判断ができるはずもなくそれがお世辞だとわかっている。しかし志津子に言われたことは利一には特別なことだった。同じように利一も気になっていた。六十年前に別れた後彼女がどのように暮らしていたか、そして今は家族がいるのか。聞きたいことがうまく言葉に出来なかった。


「志津子さん、此処に残っていたんですね。デイのお迎えが来る前に準備済ましちゃいましょう」


 他の利用者の食事の様子を見たり、食事が終えてからエレベーターまで見送ったりしていた新名が会話を割った。


「まあ、いけない。バスに乗り遅れちゃうわ。利一さんはデイには行かないんですか?別のデイかしら」

「いいえ、此処に残ります」

「そう。それじゃあ、いってきますね」


 杖をつかずすっと立ち上がり同じ年ごろの老人とは思えない足取りでそそくさとエレベーターに乗った。残った新名は志津子と入れ替わりに食事中の利一傍にやってきて「ゆっくり召し上がってください」と声をかける。利一はまた味噌汁から口をつけて食事を再開した。それを見た新名はカウンターの方へ行き皿洗いを始めていた雪美に何やら話しかけている。聞き取れたのは「しばらく」「見ていて」「お願い」位だった。何かをお願いした新名はまた足早にエレベーターに乗ってどこかへ行った。

 慌ただしいなと他人事のように思いながら利一はゆっくりと目の前の朝食を嚙みしめた。

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