第6話 去り行く日常

「そろそろ帰りますね」


 英恵は壁沿いに設置された机の上に置いたデジタルの目覚まし時計に目をやった。時間は二十時前だ。思ったより時間がかかった。普段の利一は就寝の準備に取り掛かっている時間だった。

 持って来たものはそれほど多くなかったが、部屋に備え付けられた小型キッチンの使い方を教えたり、片付けをしながら、何がどこにあると逐一説明したりしていると一時間以上かかってしまった。その間さやかは、ベッドの上に座ってつまらなさそうに話を聞いたり、スマホを触ったりして時間を潰していた。英恵が帰ると言ったのを合図にスマホをしまい思いっきり伸びをして立ち上がる。

 疲れて椅子に腰をかけていた利一も杖をついて立ち上がった。


「此処でいいですよ」


 部屋の入口で英恵が見送りを断る。利一はかぶりを振った。


「そういうわけにはいかないだろう」


 気が乗らない引越しだ。とはいえ何もかも英恵が駆けずり回ってくれたおかげでもある。素直に感謝を伝えるつもりはないが、せめて見送りくらいはしてやらねばと部屋を出た。 


 一階に停まっているエレベーターを呼ぶために英恵はボタンを押した。利一には聞きなれない耳の奥を響かすような機械音がする。三階に到着するとガコンと音をたてて止まった。英恵が乗り込み利一、さやかと続く。一階のドアが閉まると小さな振動で下りだす。


「ねえ…」


 片付けの間押し黙っていたさやかが、言いにくそうに口を開いた。


「さっきのおばあさん、誰?」


 言いたいことは言ったと口をきゅっと結びへの字を作る。眉をひそめて利一を不満そうな目で訴えた。利一はなんと言えばいいか悩んだ。志津子とは六十年以上ぶりの再会だ。生きている間にもう一度会うとは思わなかった。昔の知り合いではあるが、そう簡単にそう言える程他人行儀な間柄ではない。


「あの人は…」


 何かしら答えを出そうとしたところでエレベータが小さく揺れ、言葉と共に止まった。


「どうなさいました?」

 

 エレベーターから降りた利一たちを見て、受付から清子が出て来た。英恵が「そろそろお暇しようかと」と言うと、清子は時計を見て「あら、もうそんな時間?」と答える。清子はいくつか並んだ電気のスイッチのうち一番下のものを押してから、自動ドアを手でこじ開けた。

 施設と隣接している駐車場はわずかな電灯があるだけで薄暗い。英恵は手元の自動車の鍵のボタンを押すとヘッドランプが二度点灯した。駐車した位置がはっきりしたのを見てさやかは先に車の方へ駆け寄って後部座席に乗り込んだ。車から少し離れたところで清子は利一を止めた。


「今日は疲れたでしょう、ゆっくり休んでくださいね。また近いうちに来ます」


 利一が「ああ」と軽く返事をするのを見て、少し心配そうに利一の顔色を見てから、清子に「よろしくお願いします」と深く頭を下げて英恵は車に乗り込んだ。エンジン音をかけてアクセルを踏みゆっくり走らせた。窓を開けて頭だけお辞儀をする。利一は空いている手を振った。いつもならば後ろに座ったさやかが窓を開けて手を振り返してくれるが、そのまま施設を出て走り去った。


「ささ、お部屋に帰りましょう」


 車が見えなくなっても一歩も動かない利一の背中に手を回し、手を取ってゆっくりと施設の中へと戻った。電灯に集まった虫飛び回りこつんこつんと音をたてていた。


 清子は一緒にエレベーターに乗り込んで利一の部屋についてきた。空いている手でドアをあける。慣れた手つきで部屋の明かりをつけた。


「利一さん、今日は本当にお疲れさまでした。暫くは慣れるまで時間がかかるかもしれないけれど、皆きっと良くしてくれるから。お昼間は勿論だけれど夜もスタッフが常駐してるから何かあればいつでもなんでも言って頂戴ね。それじゃぁ、おやすみなさい」


 手を離して頭を下げた。利一は「はい」とだけ呟き、エレベーターに乗り込もうとする清子の背中を追った。エレベーターが到着する音がする。清子はもう一度利一の方へ体を向けて「おやすみなさい」と告げてエレベーターに乗った。


 清子を見送ってから部屋引き戸を閉めた。(開ききらなければ勝手に閉まる)

 入口からこれから暮らす狭い自室を見渡す。左奥にベッド、右奥に電話棚(上には電話ではなく小型のテレビが置いてある)右の壁に物書きが出来るくらいの机が見える。部屋に入ってすぐ右手に一つ口のコンロと流し台、左手に洗濯機置き場と大きい引き戸がある。引き戸を開けると広めのトイレ、そしてその奥にはお風呂が設置されていた。通路は車椅子が通れるくらい余裕があり、またあらゆる場所に手すりが付けられている。

 自宅でもケアマネージャーがついてからすぐに手すりの設置をしたのを思い出した。築年数が経つことで色がくすんだ壁に、真新しい木目調のつるんとした手すりが異様に浮き出ており違和感を覚えたのを思い出す。比べて此処の手すりは何人もの老人がぎゅっと握り命綱にしてきたのだろう。随分馴染んでいるように見えた。触ってみるとざらつきがある。殺風景と思っていた部屋に人の温かみが感じて、どこか安心感があった。

 ああ…疲れた。この年になって新しい生活をする羽目になるとは。風呂に入るのが億劫で眠ってしまいたかった。ベッドの上に用意された畳まれたパジャマに袖を通す。ベッドに潜り込むとぴんと張られたシーツが妙に固く感じた。枕元に置いたスイッチに手を伸ばす。黄色いシールに太字で『電源』と書かれたスイッチを押すと、ぴっと音をたててゆっくりと部屋が暗くなった。持って来た枕に頭を預けると嗅ぎ慣れた家の匂いがした。

 耳の奥で利一を呼ぶ女性の声がした気がする。

 この部屋で暮らす絶望に小さな光が差した。

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