第5話 懐かしい

「お食事はどうですか?あら」


 席を外していた清子が利一たちのテーブルへとやってきた。利一たちはすでに食事を終え、雪美が用意した煎茶で寛いでいるところだった。まだ食べている最中だと思っていたので清子はびっくりした。もしかして途中で食事を辞めたのかしらと心配した。


「ご馳走様でした。とても美味しかったです」英恵が軽くお辞儀をする。目尻を下げて嬉しそうに続けた。


「おじいちゃんもぺろりと平らげたんですよ。私本当にびっくりしちゃって…ねえ、おじいちゃん」


 食事は確かに美味しかった。それまでわかなかった食欲が嘘のように蘇った。とはいえ入居を許したわけではない。葛藤から素直に答えることは出来なかったが「まぁ…うん」と曖昧に返事をする。


「私はごはんお替りしました」


 利一の子供じみた反逆心を知りはしないだろうが、うまく返事ができない利一に代わりさやかはおどけたように言った。


「あらあら、若い人にも口にあったなら良かったわ。また食べにいらしてね」


 施設では入居者を見舞いに来る家族の為に、事前に予約を入れれば食事が出る。無論食事代は別途かかるが、食事目当てに何度も足を運ぶ家族もいるそうだ。


「何か特別なものを使っているとか?どこかで働いていたとかですか?」


 興奮ぎみに英恵は訊ねる。質問の意図が清子には伝わらず小首を傾げた。どこかで働いていたというのは『料理人として』と言いたかった。英恵は言い直すと清子は納得して首を縦に小さく振る。


「いいえ。此処で雇う際に調理師免許はとってもらったけれど、料理経験はなかったはずよ。使ってる調味料もスーパーで買えるようなものを使ってもらってるわ」


 各家庭の味は無理でも懐かしさを感じられるような家庭料理を出すようにお願いしていると清子は言う。途中雪美に使っている調味料の会社を聞くと、醤油やみりんなど、どこどこのを使っていると完結に答える。利一にはわからなかったが英恵は「うちもそれだわ」と言った。料理をしないさやかでさえ「普通じゃん」と笑っていた。どうやら本当にだから特別な調味料や、珍しい物は特別な日以外は出さないようにしている。それでこの料理とは見事な腕前なのだと利一は感心した。


「ただいまぁ」


 女性陣が料理トークに花を咲かせていると六人の団体がエレベーターが到着する「チーン」という音の後にぞろぞろとやってきた。清子は立ち上がり「おかえりなさい」と笑顔で出迎える。皆が口々に「疲れた」と愚痴を吐きながらもどこか楽しそうだ。


「皆さん、お食事の前に以前新しい入居者が来る話はしたわね。丁度ここにいらっしゃるから紹介するわ」


 仰々しいなと思いながら利一は座ったまま視線を向けた。


「内田利一さんよ。それから義理の娘さんとお孫さんが来てくれたの」


 英恵は即座に立ち上がり「お世話になります。よろしくお願いします」と恭しく頭を下げる。さやかも立って頭を下げた。利用者は「はいよろしくー」と多少なおざりで簡単な挨拶を済ます。部屋が空けば次の入居者が入るだけ———死もいつだって隣にあるような年齢だ、老人ホームの新参者は珍しくないのだろう。利一は特別仲良くするつもりは毛頭もなく、老人同士の付き合いも無理矢理することないんだなと直感し気楽ささえ感じた。

 その中でじっと利一を見る同じ年位の女性がいた。ロマンスグレーの髪を三つ編みで一つに結って右肩に垂らしている。気になる程ではないが、結い方が均等でなく少々不格好な三つ編みである。どこにでもいる女性———ではなかった。窪んだ眼は印象的な灰色をしている。利一はその目に釘付けになっていた。


「利一さん?」


 利一がずっと昔に一番大切で一番悲しい記憶を二度と思い出すことのないように頭の片隅に追いやった。鈴を転がしたような声。多少かすれてはいるものの記憶を呼び覚ました。


「志津子さん…ですか?」


 色鮮やかに蘇った記憶の中の利一は、今のさやか程若くてまだ幼い自分だった。ハリケーンのように湧き出た高揚感で身体も若返った気分になり杖もつかず立ち上がろうとすると腰に鈍い痛みを覚える。思わず唸るような声が出た。皆が一斉に「あっ」と声をあげて利一の方向へと身を乗り出した。


「おじいちゃん、無理しちゃだめだよ」


 すぐ隣に座っていたさやかが、利一の腰を支えるように手を当ててもう一度ゆっくり座らせた。暫く擦っていると次第に痛みが和らいでいく。


「お恥ずかしいところをお見せしました」


 年をとればこんなものだと諦めているところはある。どんなにあがいても老化を止めることはできない。それでもこの瞬間は志津子の記憶にあるまだ若くて溌剌としていた自分を今の自分に重ねられるのが恥ずかしく思い顔を伏せる。

 千世は利一の傍に歩み寄ってテーブルに置いた皺皺になった左手を包み込むように両手で触れた。外から帰って来たばかりだからか、同じだけ皺を蓄えた小さく細い手はじんわりと温かい。


「お互い、随分年をとりましたね」


 視線をあげると、小首を傾げてほほ笑んだ。少し乱れた細い髪が揺れる。

 懐かしい。志津子の癖だった。

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