第3話 置いて行く

 入居が決まると、今度は荷物を運び出すために今度は繁たちの子供である中学生のさやかが引越しの手伝いに来てくれた。夏休みに入り宿題と塾の予定しかないから連れて来たと英恵は言う。年若い子なのだから友達とでかけたり遊びたい盛りだろうにと利一は首を捻る。実際さやかも「遊ぶ予定くらいある」とぼやいている。中学二年生になったさやかは反抗期真っ只中だ。口をへの字にしてぶっきらぼうな態度も取るが、心から嫌そうな態度ではなかった。英恵から自分が出かけている間に荷造りの手伝いをしてと頼まれて「えー…」と不平を零しながらも、手順をしっかりと聞いているようだ。


 英恵が出かける車を見送った後、さやかは大きくのびをして利一に向かうでもなく「やりますかー」と呟いた。


「遠いところから来てくれたんだ。ちょっとお茶でもしてから始めないか」


 さやかは「いいけど」と返事をして台所の方へ行った。どこか足取りは軽そうだ。利一はほっとし杖をつきながらさやかの後をついていった。


 利一は換気扇を回し、ゆっくりとした手付きで使い古されたやかんでお湯を沸かす。これは彼が唯一台所で出来ることだ。

 晴子がこの世を去るまで台所の仕事を一度もしたことがなかった。とはいえ温かいお茶が飲めないのは困ると、お湯を沸かす方法を英恵から教わった。生前買っていた玄米茶は今でも利一が自分の足で行きつけのスーパーに行き買う。一か月から二か月に一度の買い物だ。最初こそスーパーでの買い物は手間取った。レジの店員から「カードはお持ちですか」と訊かれ、それがクレジットカードのことをさすものだと思い込んでいた利一は一枚だけ持っているそれを差し出す。すると店員は怪訝な顔をして「カードでのお支払いですか」と数百円の玄米茶に目を落として確認をしてきた。利一も眉を顰め現金で払うことを伝えると、またカードの有無を問いてくる。そこで初めてスーパーのポイントカードという存在を知った。

 恥ずかしい気持ちもあったがその話をさやかにすると「コントみたい」と声に出して笑ったことで、情けなさが薄らいだ。

 お湯がしゅんゆんと音を立てる頃に急須に玄米茶をプラスチックの匙で二杯入れる。ゆっくりとやかんを傾けると、じゅわっと音を立てて注ぎ口から小さな波を作り急須に注がれた。

 お茶のパッケージには蒸らし時間が書かれているが、利一はそれに倣わず見た目と自分の直感だけで湯呑に注ぐ。年に数回くるだけのさやか専用の湯呑にも注いだ。さやかはそれを受け取ってふーふーと息を吹きかけ、ずずっと音をたてて口にする。「美味し」と短く返事をした。


「施設行ったらケトル買いなよ。ボタンひとつで沸くよ」

「慣れてないものを使うのは無理だ」


 さやかの提案を一刀両断したことに一瞬しまったと思った。ちらりと様子をみると気にしていないというように玄米茶を啜っている。同意も否定もしなかった。興味がないのか、否定しない優しさなのか利一には判別がつかないが、嫌な気持ちになったことはなかった。

 施設の話は特に聞かれなかったので利一から学校は楽しいか、勉強はどうだ、部活はやっているのかと他愛ない話をした。さやかはどの質問も「それなりに」と枕詞から「楽しい」とか「悪くないよ」と簡潔に答えた。


 お茶を終えて利一とさやかは寝所の畳の部屋に移動した。早速と既に用意していた段ボールを手早く組み立てる。とりあえずすぐに必要な分の衣類だけ持って行くこととなり、半袖のシャツや夏用の下着を取り出す。そしてハンガー掛けのクローゼットを開いて縦線が入った夏のズボンを出した。畳んである服をわざわざ広げだした。


「何をするんだ。せっかく畳んであるのに」

「名前と部屋番号を書くの。洗いものは職員がしてくれるから、持ち物は全部書くんだって」


 まるで幼稚園か小学校の入学式の様だと肩を落とす。いつだったか忘れたがテレビで見た老人ホームでは、どこか広場に集められた老人たちが若い職員と共に歌に合わせて手や身体を揺らしていた。それこそお遊戯会をする幼稚園のような場所だと利一は不快に思った。まさか自分にもそんな時が来るとは思わなかった。晴子の方が年上とはいえ、まさか先立たれるとは一度も考えもしなかった。時折「あなたが先に逝ってしまっても自由に過ごすわ」なんて軽口を叩いていた。老人ホームに入るなんて一度も言ったことがなかった。だから自分には縁遠いものだと思い込んでいたのだろう。


 ふと繁や智子が小学校に入学する前のことを思い出す。晴子はせっせと持ち物全てに名前を書いていた。時折唸っては書き続けていたのを思い出す。小学生の持ち物は事細かにあるそうだ。教科書に始まり、ノート文房具、ハンカチ、あらゆるものに名前を書いていた。あんなに小さかったのにな。今や自分の親を施設に放り込む様な大人になるなんて思いもしなかったと心の中で当たり散らす。

 晴子と同じようにさやかは畳にへばりつくような恰好で広げた衣服のタグにサインペンで利一のフルネームを漢字で書いていた。


 衣類が終わると次は本を詰めた。全てを持って行くのは無理なので、本棚には入りきらない程溢れた本から利一のよく読むお気に入りの本だけを詰めた。それでも二十冊は超えていたと思う。さやかが「施設に入ってからも買うんだから本棚買わなくちゃね」なんて言いながら詰めた。あとは歯ブラシやタオルなどの日用品、段ボールに詰めていく。


「おばあちゃんの遺影はどうする?」


 利一の書斎から使い慣れた文具類をまとめているとき、さやかは机に置かれた小さな写真たてに目をやった。写真は苦手な晴子だった。カメラを構えるとどうしても笑顔も硬い表情になる。晴子曰く、どんな顔をしたらいいかわからないと言い大抵直立不動の真顔の写真しか撮れなかった。その中で金婚式の際に家族で集まった時の写真が一番自然に微笑んでいる写真だったのでそれを額縁に入れる遺影にし、元の小さな写真を木目調のフレームで作られた写真たてに飾っておいた。


「梱包材で包んでくれ。あと花瓶も」

「花瓶も?」


 写真たての前に小ぶりの陶器の花瓶を置き、生前世話をしていた庭の花を飾った。庭の花は晴子の好きな花ばかりなので選ぶのに難儀することはなかった。


「お花、供えられないよ?」


 施設に行けば庭の花を切って飾るなんてことは出来ないと考えたさやかがそういう。花屋が近くにあればいいが、町を散策したわけではないので知らない。それでも花瓶だけを置いて行くのは忍びなかった。機会があれば飾りたいと考えた。

 さやかは「わかった」と言い梱包材で丁寧に包んだ。


 家にあるものを全て持って行かないとはいえ、段ボール三箱分になった。それに加え、大型量販店で買ったプラスチック製の収納ケースを玄関先に置いた。


「おじいちゃん」


 さやかは段ボールに目を落とした。手を後ろに回して右手で左手首を持ち、右足のつま先で左足の足首を掻いた。少しばかし口をもごもごとさせてから口を開いた。


「この家はどうなるの」


 利一がすぐ答えなかったからか、さやかは段ボールから利一に目を向けた。その目は和江のようだった。まるで「私たちの家を空けないで」と懇願しているようにも、「見捨てるのか」と責めているようにも思えた。


 英恵が帰って来た時には家を出る準備は済んだ。家を出る直前まで気持ちの整理がつくことはなく、すねた気持ちも捨てられず不貞腐れた気分のまま英恵の車に乗り込んだ。

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