陽一、裡に潜むものを意識する

 西村陽一は、昼過ぎに目覚めた。

 起きると同時に、おかしな違和感を覚えた。体がこわばり、あちこちが痛むのだ。一瞬、風邪でも引いたのかと思い不安になった。

 その痛みの正体に気づいた時、思わず苦笑する。


 これ、筋肉痛じゃないか──


 考えてみれば、家に引き込もって以来、運動らしい運動をしていなかった。そんな状態で、昨日は左ジャブを千回ほど打っていた。やはり、体は相当なまっているようだ。体は痛むが、気分は悪くない。事実、昨日から今朝にかけては、ぐっすり眠れたのだ。

 ふとスキンヘッドの男の姿を思い出す。あの男は背が高い。だが、それ以上に……体は分厚い筋肉に覆われていた。作業服ごしにもわかる、筋肉の鎧に覆われた体。あの体から繰り出されるパンチは、それだけで凶器だ。

 その時、別のことも思い出した。小説投稿サイトに、格闘技のエッセイがあったのだ。もっとも最初は、格闘技について偉そうに語っているだけの駄文、という印象しかなかった。

 そのエッセイには、闘いにおける体格および筋力の有効性についても書かれていた。アニメなどに登場する華奢な少年少女がいくら格闘の技を磨こうとも、圧倒的な体格そして腕力の持ち主の前ではなす術がない。それが現実だ、と力説していたのである。

 その時は、フィクションのキャラ相手に何を書いているのだろうか……としか思わなかった。しかし、今は理解できる。スキンヘッドの男は、たった一発のパンチで不良の意識を刈り取った。あの一撃には、アクション映画やアニメなどに見られる華麗さがない。代わりに武骨で、冷たさすら感じさせる一撃だった。

 まるで、現実社会のようだ。


 昔からそうだった。世の中は綺麗事に満ちている。人間はみな平等だの、愛は永遠だの、夢は信じていれば叶うだの……。

 みんな嘘っぱちだ。人生は短くて下らない。愛だの夢だの、そんなものを信じる奴は頭がどうかしてる。もっとも、そんなことは自分に言われるまでもなく、みんな知っている。知っているから、現実から逃避したがる。

 異世界転生してチート能力を授かり、ハーレムを造るというストーリーが象徴するもの……まさに、現実逃避の現れだ。


 だが、スキンヘッドの男には、現実逃避の雰囲気など欠片もなかった。現実の裏社会に向き合い、闘い抜いてきた匂いがした。敗れれば、両手両足をへし折られて両目を潰され路上に放り出される、そんな世界で生き抜いてきたのではないか。

 陽一は、胸の高鳴りを感じた。同時に、ドス黒い衝動が湧き上がってくる。

 なぜか体が疼いている。何もかも壊したいという願望が強くなっている。一昨日に遭遇した出来事。数人の不良を圧倒する暴力、そして殺気……一瞬の出来事ではあったが、あまりにも強烈な印象を残したのだ。




 陽一は、何もかもが嫌いだった。

 世の中に存在する、一般大衆と呼ばれる人々……自分の生まれてきた意味を考えようともせず、流行りのものに飛び付き、他人を嘲笑い、弱者を叩き、それでいて善人面をしてテレビドラマを見て涙を流す……そんな連中が、嫌で嫌で仕方なかった。

 だが、社会に出て生きていくには……そんな連中の一員にならなくてはいけないのだ。

 認めたくはない事実だった。だが、いずれ自分は社会に出て行かなくてはならない。ニートの期間は、いつか終わりを告げる。自分の足で立たねばならない時が来るのだ。

 しかし、一般大衆の仲間入りだけはしたくない……だからこそ、陽一は小説を書いた。自分の中の暗い衝動を、文章の中に叩きつけたのだ。同時に、少しでも共感してくれる人間がいることも願った。

 だが、読んでくれる者はいなかった。




 結局のところ、自分はひとりだ。誰も自分の意見など聞こうとしない。そんな自分は、一般大衆の中で己を殺して生きていかねばならないのだ。

 では、あのスキンヘッドの男の生きている世界はどうなのだろう?

 彼らは社会のルールの外で生きている。いわば裏の世界だ。裏の世界で生きれば、必然的に一般大衆の仲間入りをせずにすむ。

 だが、裏の世界でヘマをすれば、昨日のニュースに出ていた男のような目に遭う。両手両足をへし折られ、薬を打たれて路上に放置されるような目に遭わされるのだ。

 陽一にとって、それは恐ろしくも魅力的な考えだった。

 その時、駅の近くにボクシングジムがあったことを思い出す。これまでは、存在は知っていても興味などなかった。

 だが、今は違う。陽一は服を着替え、外に出る。裡に潜むドス黒い何かが、彼を突き動かしていた。そのままボクシングジムへと向かう。




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