一郎、記憶の混乱に気づく

 仁美一郎は、いつものようにバスに乗った。

 アルバイトが大量に休んだせいで、今日の仕事は大変だった。おかげで夜の七時まで残業をする羽目になったが、どうにか無事に終わらせることができた。

 バスを降りた一郎は、駅に向かい歩き出す。改札口を通り抜け、電車に乗り込む。

 電車に揺られている間、昨日のことを思い出した。あの高山とかいう刑事は、嫌悪感を隠そうともしない態度だった。なぜかは知らないが、自分は様々な人間から嫌われる。数年前に一郎と付き合い、別れた女がいた。彼女は別れ際、こんなことを言ったのを覚えている。


「出会った頃は……あんたの変わってる部分が好きだった。あんたは他の男とは違うと思ってた。でも、あんたは変わってるなんてもんじゃない。あんたは狂ってる」


 自分のどこが狂っているのだろうか? 全くわからない。彼女にそう言われた時、悲しかったのははっきりと覚えている。だが、その悲しみは数分もしないうちに消え、空腹が取って代わる。事実、女が自分の前から立ち去るのと同時に、一郎は近くのラーメン屋に入った。

 ラーメンを食べ、空腹が満たされると同時に悲しみも消えていた。


 そう言えば、あの女は何という名前だっただろうか?


 そんなことを考えている間に、電車は真幌マホロ駅に到着した。電車を降り、駅の改札を出る。もう八時を過ぎ、あたりはすっかり暗くなっていた。

 一郎は、住んでいるアパートに向かい歩き出す。しかし突然、駅前の建物から大柄な男が出て来た。一郎と危うくぶつかりそうになる。


「すみません」


 スキンヘッドで強面、しかも大きめの体にもかかわらず、丁寧な口調で男は頭を下げ、足早に去って行った。

 だが一郎は、その場に立ち尽くしていた。今、彼の体の裡に走ったもの……自分でも何だかわからない異様な感覚だ。立ち止まったまま、呆然とした顔で男の後ろ姿を見ていた。


 あのスキンヘッドの男は、どこかで会った気がする。

 どこで会った?


 一郎は人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。実際、会社で接する人間のほとんどの名前を覚えられずにいる。

 だが、今の男の顔には、確実に見覚えがある。もちろん仕事の関係者ではない。学生時代の知り合いでもない。


 じゃあ、誰なんだ?


 必死で思い出そうとした。しかし思い出せない。確かに、どこかで会っているはず。そもそも、あれだけ特徴のある人間のことを忘れるはずがないのだ。

 一郎は奇妙な感覚に襲われた。どういうことなのだろうか。

 何か重要なことを忘れてしまっている気がする。その重要なことに、今すれ違った男が関わっていた気がするのだ。




 ふと気がつくと、家に着いていた。どうやって帰って来たのだろうか。道中の記憶が全くない。

 だが、一郎は深く考えずに家に入り、テレビをつけた。ニュースが放送されている。アナウンサーが真剣な表情で、猟奇的な事件について語っていた。今朝早く、両手両足をへし折られて両目を潰された男が路上で発見されたのだという。男の名は寺門達也。あまりの恐怖のためか精神に異常をきたし、支離滅裂な言動を繰り返しているという。警察は慎重に捜査をしているものの、手がかりはないらしい。

 だが一郎は、そんなニュースに興味がなかった。世の中には、ずいぶんと暇な人間がいるものだ。ひとりの人間を拉致し両手両足をへし折り、さらに両目も潰すとは。無論、やってみたことはない。想像してみるだけではあるが、おそらくは一日がかりの作業であろう。恐ろしく暇な奴だ。そんな暇があるのだったら、ウチの仕事を手伝ってもらいたいくらいだ。

 その時、一郎は記憶に混乱が生じているのに気づいた。


 昨日は何があったのだろう? 

 やたら帰りが遅くなった記憶がある。刑事と話した記憶もある。

 待て、俺は何で刑事なんかと話した?

 俺は何かやったのだろうか……いや、逮捕された覚えはない。しかし、刑事の名刺をもらった記憶がある。


 一郎は財布の中を見る。名刺が入っていた。高山裕司という刑事のものだ。この名前には覚えがある。だが、昨日は何があったのだろう?

 そういえば、窓から血まみれの少年が歩いているのが見えた。これもはっきり覚えている。


 血まみれの少年? 

 昔、どこかで見た。

 どこで?





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