鉄雄、嫌な話を聞く

 夕方五時のサイレンが鳴り、藤田鉄雄は作業の手を止めた。

 と同時に、素早く持ち場を離れる。黒川運輸の倉庫は広い。うかうかしていると道に迷ってしまいそうだ。更衣室までは、歩いて十分ほどかかる。しかし、鉄雄は更衣室では着替えない。トイレで着替え、タイムカードを押し、さっさと引き上げる。


 倉庫を出た後、鉄雄が向かったのはボクシングジムだ。

 ジムに入ると、鉄雄は手早く着替えトレーニングを開始する。縄跳び、シャドーボクシング、サンドバッグ打ち、ミット打ち。百八十センチ九十キロの、筋肉の鎧に包まれた体がリズミカルに動く。サンドバッグにパンチを叩きこむ度、爆発音にも似た音がジムに響き渡る。ジムの中にはプロボクサーもいたが、鉄雄のトレーニングには圧倒されているようだった。


「いやあ、もう無理だわ……三ラウンドやるつもりだったけど、こっちの手首がもたないよ。藤田さん、あんたのパンチは強いな……欧米人にも負けてないよ。どう、プロテスト受けてみない? 藤田さんは三十歳なんでしょ? だったら、ぎりぎりプロテスト受けられるし」


 ミット打ちの後、トレーナーが手首をさすりながら話しかけてきた。その言葉は、お世辞でもなさそうだ。


「いや、自分なんかまだまだです。それに、片方の目が悪いんですよ。右目は問題ないんですが、左目がかなり……」


 鉄雄は、タオルで汗を拭きながら、すまなそうな口調で答える。


「そうか。本当に残念だよ。うちのジムから大型新人をデビューさせられるかと思ったんだがな。いや本当に、藤田さんのパンチなら一発でKOできるよ……ま、当たればだけどね」


 トレーナーは、冗談とも本気ともつかない口調で言葉を返す。

 ボクシングの練習メニューを終えた後、鉄雄はジムにあるバーベルやダンベルを用いて軽いウエイトトレーニングを行った。最後に念入りなストレッチを行い、シャワーを浴びた後に着替えてジムを出る。既に八時近い時刻になっており、まっすぐに帰宅する。




 鉄雄は、どんな時でもトレーニングを欠かさない。

 この男の本業は現金輸送車を襲ったり、人を車に乗せて連れ去ったりといった荒っぽいものが多い。そういった仕事をこなす上で重要なのは、強靭な肉体と精神である。日頃から肉体と精神を鍛え上げ、じっくりと計画を練り、一瞬の間に全てを終わらせ立ち去る。そういうスタイルで生きてきた。

 犯罪者のプロとアマの違い……それは、仕事を完璧にこなすことだ。仕事を完璧にこなすためには、日頃の自己管理は大切な要素である。だからこそ、鉄雄はトレーニングを欠かさない。全ては仕事のためなのだ。

 トレーニングを終えて帰宅した後は、特に何もしない。酒はあまり飲まないし、キャバクラにも風俗にも行かない。ドラッグもやらない。ただ、じっとおとなしく部屋にこもり次の計画を練る。肉体を休めることも含まれている。


 いつものように部屋でおとなしくしていた鉄雄のスマホに、いきなり連絡が来た。今回の仕事のパートナーである火野正一からである。


(あ、鉄さん、どうもです。高山って刑事を覚えてますか?)


「ああ、覚えている。高山がどうしたんだ?」


(あいつ、この辺りの署に飛ばされてきたらしいんですよ。さっき、ウチの事務所に来ました。何かしつこく、いろいろ聞いていきましたよ)


「何だと……おい、事故った運転手がベラベラといらんことを喋ったんじゃねえだろうな?」


 鉄雄の表情が険しいものに変わる。下手をすると、計画のすべてを中止して、ここを引き払わなくてはならない。


(ああ、それなら心配ないですよ。あいつ即死だったそうですから。高山が言ってました)


「そうか。だったら、奴はお前の事務所に何の用があったんだよ?」


(さあ。何か知らないんですけど、この辺りでいろいろと調べてまわってるみたいですよ。俺のことをパクる気はないみたいでしたが。とにかく気をつけてください)


 通話を終えた後、ため息をついた。高山裕司、その名は今も覚えている。

 五年前の仕事の際、鉄雄はドジを踏んで逮捕された。その時に取り調べを担当したのが高山だったのだ。本当にしつこい刑事だった。執拗に取り調べ、ちょっとした言葉の矛盾や綻びを見つけるや否や、すかさず突いてくる。

 鉄雄は知らぬ存ぜぬで粘り、最後には証拠不充分で釈放されたが、去り際の高山の言葉は──


「俺にはわかってる。お前がやったんだよ。いいか、もし次に会った時には……どんな手を使おうが、必ずムショにぶちこむからな」


 釈放されたと同時に、鉄雄はすぐさま港署の管轄地域を離れた。正直、こんな刑事とはお近づきになりたい者などいない。

 そんな刑事と、よりによってここで再会してしまうとは……。





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